会津・喜多方編(4):白河(09.8)

 その近くには、戊辰戦争白河口の戦い(1868)で戦死した新撰組隊士・菊地央(たのむ)の墓と、同戦いで戦死した東軍十一名を合葬した戦士人供養の碑がありました。
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 なおここ白河で起きた白河口の戦いについて、ウィキペディアから引用します。
 白河口の戦いは、会津戦争(戊辰戦争)における戦いの1つ。戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた。
 慶応4年4月から7月(1868年6月から8月)にかけて、南東北の要地白河城をめぐり、列藩同盟軍(北部政府軍)(会津藩、仙台藩、棚倉藩など)と新政府軍(薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍藩)が戦った。仙台藩が奥羽鎮撫総督府の九条道孝総督に提出した会津藩寛典処分嘆願書等を総督府を事実上支配する長州藩の下参謀、世良修蔵が却下すると、仙台藩は世良修蔵を福島で捕縛して処刑し、さらに岩沼に出兵して九条総督、および醍醐副総督の身柄を確保し、仙台城下の重臣の屋敷に軟禁した。また、仙台藩と会津藩を主力とする北部政府軍は世良修蔵を処刑した同日、白河城を攻撃して新政府軍から白河城を奪い取った。ここに、「東北戦争」が勃発した。しかし、新政府軍は白河城を奪還し、同盟軍は7回にわたって奪回作戦を行ったが、イギリスを後ろ盾としイギリスから最新式の銃器を購入していた新政府軍は、劣勢な兵数で白河城を守りきった。
 なおこのあたりでは、列藩同盟軍を東軍、新政府軍を西軍と呼んでいるのですね。それでは西軍の墓地がある長寿院に行ってみましょう。地図を頼りに十分ほど歩くと、長寿院に到着です。墓地の一画に、「官軍 土佐藩」「長藩」等々と刻まれた墓石が整然と並んでいました。解説によると、名称は「慶応戊辰殉国者墳墓」で、西軍(新政府軍)である長州藩・土佐藩・大垣藩・館林藩・佐土原藩の戦死者がここに眠っています。(薩摩藩の墓所は小峰城東側の鎮護神山に改葬) 東軍戦死者の墳墓は、皇徳寺をはじめ、市内各所に点在しているようです。
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 えてして私たちは華々しい、あるいは悲惨な戦闘にのみ目を向けてしまいますが、その影に、甚大な犠牲を被った民衆がいたことを忘れてはいけないでしょう。「日本の歴史13 文明国をめざして」(牧原憲夫 小学館)から引用しましょう。
 戊辰戦争が激化すると、住民は双方から軍夫に駆り出され、食糧・金銭を徴発された。女性・子どもは山に逃れたが、田畑は踏み荒らされ、家や店は焼かれた。たとえば郡山町(福島県郡山市)では、会津藩の放火・強奪と新政府軍の強奪が繰り返され、その間に町民の一部も酒屋・米屋の蔵から品物を持ち出した。…
 兵士だけでなく、軍夫や道案内に連れ出された住民も容赦なく殺された。たとえば、会津藩の前線拠点のひとつだった那須郡三斗小屋宿(栃木県)では、一進一退の攻防戦のなかで、旧幕府軍の軍夫にさせられた農民が畑の中に立たされ、新政府軍(黒羽藩士)の一斉射撃の標的にされた。近くの元名主は自宅が旧幕府軍の仮陣屋にされたのち、新政府軍が来て道案内を強制された。だが、ふたたび戻ってきた旧幕府軍は彼を柱に縛りつけ、股の肉を焼いて食べるなどして虐殺したという(田代音吉『三斗小屋誌』)。…
 箱館五稜郭の旧幕府軍も、金銭の強奪、強制労働はもとより、賭場や遊女にまで上納金を課し、最後は町に放火した。河合敦氏によれば、函館には今も榎本武揚(ぶよう)をもじった「榎本ブヨ」という言葉が残っているという。(p.55~58)
 彼ら/彼女らにとって、西軍・東軍どちらも忌避したい存在であったのではないかと想像します。ほら江戸時代の諺にもあるじゃないですか、「七度の餓死に遇うとも、一度の戦いに遇うな」ってね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-05-09 10:08 | 東北 | Comments(0)
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