会津・喜多方編(22):御薬園(09.8)

 帰りはペダルをこがずに快走、あっという間に次なる目的地、御薬園に着きました。歴代の会津藩主が利用してきた別荘ですが、貧民の施療や疫病対策を兼ねて数多くの薬草の栽培をはじめたため、この名がつけられたそうです。こちらの庭園はなかなか眼を喜ばせてくれました。磐梯山を借景とした大きな心字池の周りを散策できる、いわゆる池泉回遊式大名庭園てやつですか。その開放的でのびのびとした雰囲気に、心がときほぐれます。
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 池の中島には数奇屋づくりの茶室「楽寿亭」があり、解説によると藩主や藩の重役たちが、納涼・茶席・密議のために利用したそうです。北側の濡縁には戊辰戦争の際の刀傷が残っていました。
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 「おいしーっつ!(ママ:方言?) やめられないとまらない コイ・カモのごはん 100えん」があったので、さっそく購入、眼を血走らせて集まってきたコイのみなさんに大盤振る舞いをしました。
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 実は駅の観光案内所でもらった「会津若松 極上の会津」という観光案内がたいへん素晴らしいものです。大きなサイズに正確無比な地図、そこにさまざまな史跡・見どころが微に入り細を穿って記されています。観光名所の解説がないのと、お店の宣伝が多いのが玉に瑕ですが。よってこれからはディープな物件をまわることになります。まずは天寧町土塁、蒲生氏郷が1592(文禄元)年に築造した若松城の古い土塁の一部が残されています。残念ながら金網があって、近くには寄れません。そして県立会津総合病院のあたりで、「飛び出し小僧」をゲット。
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 その近くにあるのが、「柴四朗・柴五郎生誕の地」という解説板です。柴四朗は戊辰戦争に参戦、その後、東海散士のペンネームで「佳人之奇遇」を著し、ジャーナリスト・政治家として活躍した人物です。柴五郎は四朗の弟、戊辰戦争で母と妹は自刃、彼はわずか八歳で下北半島の斗南藩へ流され塗炭の苦しみを味わいますが、不屈の努力で陸軍大将となった方です。なお彼が書いた自伝「ある明治人の記録」(中公新書)は名作です。ねっ、こうしたレアな物件まで紹介してある、この観光地図の見識には脱帽します。
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 ほとんど民家と見分けがつかない銭湯・城前温泉を写真におさめ、会津若松市立第二中学校の脇に残されている旧第29連隊本営の煉瓦造りの門を拝見。
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 そして西郷邸跡の碑へ。会津藩家老、西郷頼母の屋敷跡ですね。会津戦争の際に頼母が城に入ると、妻千恵子はもはやこれまでと三人の娘を刺して「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ」という辞世を詠んでここで自刃しました。こういう"節"は勘弁してほしいですね、己の命を軽視する者は他者の命も軽視する。その後の天皇の軍隊のあり方を予感させる逸話です。そして凝った意匠とアーチ型の入口が印象的な蔵造りの会津葵本店の脇を通り、鶴ヶ城へと向かいます。
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 お堀端で白虎隊と娘子軍の顔はめ看板をゲット。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2010-06-06 07:41 | 東北 | Comments(0)
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