会津・喜多方編(23):鶴ヶ城(09.8)

 それでは自転車を駐輪して天守閣へと上りましょう。秀吉に会津を託された蒲生氏郷が築いたこの城は、空高く翼を広げたような天守閣の形から「鶴ヶ城」と呼ばれ、難攻不落の名城と言われました。一ヶ月も続いた戊辰戦争での籠城戦にも耐えましたが、1874(明治7)年に取り壊しとなり、会津市民の要望などもあって1965(昭和40)年に今の天守閣が復元されたそうです。会津や戊辰戦争を紹介するなかなか垢抜けたミュージアムをざっと見ながら最上階に上がると、絶景絶景。会津若松市内を一望でき、さきほど訪れた飯盛山や磐梯山、町をとりまく山なみも遠望できました。かつて業火に包まれた会津の町も、今は夏の光を浴びて何事もなかったかのようにまどろんでいます。
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 ここまで会津若松を徘徊してきて気づいたのは、あの戦いを「会津藩の悲劇」としてとらえる見方が大勢を占めているということですね。ま、観光客を呼ぶためかもしれませんが。気になるのは、会津の町人や農民たちの存在がすっぽりと抜け落ちていることです。会津攻めに参加した板垣退助の言を思い出します。正確には覚えていないのですが、たしか会津の町人・農民が会津軍に自発的に協力せずに傍観あるいは逃走したのを見て、「これからの日本はこれではいかん」というような趣旨のことを言ったと思います。その後の日本は、彼の言ったとおりに、国家権力のために命を捧げる国民づくりに奔走するわけですね。実は帰宅後に読んだ「日本の歴史13 文明国をめざして」(牧原憲夫 小学館)の中にこういう一節がありました。
 戊辰戦争が始まると京都・大坂周辺の民衆に会津贔屓の気分が生まれたことは前にみた。だが、現地民衆の意識はまったく違った。なぜなら、幕末の会津藩は藩民にとって過酷な権力だったからだ。〈落城に際して領民がなんら同情心を示さなかった〉とウィリスも報告している。
 越前松平家に次ぐ家格の親藩の会津藩は、文化七年(1810)以来、三浦半島警備、房総警備、品川台場警備、蝦夷地警備、京都守護職・京都警固などをつぎつぎに命じられて財政が急速に悪化し、藩首脳が藩主松平容保の京都守護職就任に反対したほどだった。そこで、郷頭・肝煎などを多額の献金で士分に取り立て、彼らを使って百姓からの収奪を強めた。戊辰戦争では悪鋳貨幣を大量につくり、農兵を取り立て、新政府軍の人足・食糧調達を阻止するため街道の村々を焼き払った。…
 新政府から藩の存続が認められ、移住地として猪苗代地方か本州最北端の斗南地方を提示された藩首脳が、あえて斗南を選ばざるをえなかったのは、こうした藩民の怨みを実感したからだった。(p.57~58)
 これは衝撃でした。会津藩は懲罰として下北への移住を強制されたのかと思っていたのですが、ある意味ではその存在を民衆に拒否されたのですね。民衆からの視点を忘れてしまうと、歴史というものは客寄せのパンダになってしまうでしょう。それにしても、げに恐ろしきは戦争と苛政、そして民草です。われわれも為政者の心胆を戦慄させるような民草になりたいものです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2010-06-07 06:28 | 東北 | Comments(0)
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