会津・喜多方編(26):西蓮寺(09.8)

 そして末廣酒造の剛毅な木造家屋と重厚な蔵を拝見。
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 しばらくペダルをこいでいると、真宗大谷派西蓮寺の門前に「戦争の流れは気付いた時には大河となっている 怒涛のように突然にダ!」というアピールがありました。何と志の高いお寺さんでしょう、感服いたしました。私が集めた箴言をいくつかエールとして贈ります。
 七度の餓死に遇うとも、一度の戦いに遇うな (江戸時代の俚諺)

 戦争に抗議しない人間は共謀者である。(クリストフ・ニーロップ)

 国民国家、それは戦争である。(ミッテラン)

 戦争は一人、せいぜい少数の人間がボタン一つ押すことで一瞬にして起せる。平和は無数の人間の辛抱強い努力なしには建設できないそのことにこそ平和の道徳的優越性がある。(丸山真男)

 今、日本が世界に誇れるのは、第2次大戦後日本人兵士に殺された人間は一人もいないということ。(unknown)

 人の歴史は戦いの歴史じゃ。前に向かって一歩一歩進んでいく… 問題はそのあたえられた環境(自身の生きている時代)の中でどこまで歩むかじゃ… その足跡からさらに後の人びとはさきへ進んで行くのじゃ… 目的に向かって… それが人の生きがいというものじゃ… その時人は死もおそれぬし、おのれの力いっぱいをはっきできるものじゃ… おぬし、自分の歩んだ足跡を見たことがあるかな… われらは遠くから来た。そして遠くまで行くのだ。(影丸)

 戦死者は無駄死にさせなければならない。(サリンジャー)

 戦争は人間の日常性を破壊する。日常性とはつまらないもののように見えて、じつは、人間の世界を立ち上げているものなのだ。これを剥ぎとられたとき、人間性は喪失し、世界は崩壊する。二十世紀の暴力がしでかしたのはそのことだった。それはアウシュビッツと広島において頂点に達した。(多木浩二)

 その戦死者の山は三代のちの子孫まで/人々の眼に無言の戒めとして映ることだろう/死すべきものの身でありながら、分を越えて思い上がるなかれと/思い上がりは花を開いて、迷妄(アーテー)の穂を実らせ/とどのつまり、涙多い収穫を刈り取る破目となるのだから。(アイスキュロス 『ペルシアの人びと』)
 そして七日町駅前には、鶴ヶ城本丸内にあった御三階が移築されています。残念ながら夕刻のため門は閉ざされており、近くには行けませんでした。さあそれでは渋川問屋で夕食です。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-06-10 06:27 | 東北 | Comments(0)
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