五島・対馬・壱岐編(17):厳原(09.9)

 さあそれでは厳原彷徨です。近くの郵便局の前には、「文化八(一八一一)年 朝鮮通信使幕府接遇の地」という小さな記念碑がありましたが、そうですね、朝鮮通信使の通過地であるとともに、江戸時代において対朝鮮外交を担ったのがこの対馬藩であることも忘れてはいけない。なお今調べてみたところ、これは最後の通信使であるとともに、天明の大飢饉の影響で、江戸ではなくここ対馬で接遇した異例のケースだということです。まずは対馬歴史民俗資料館へ行きましょう。かつての藩主屋敷の門を復元した高麗門の前を通り過ぎると、大きな二つの石碑が立っています。
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 一つは「朝鮮通信使之碑」。解説を転記します。
 朝鮮通信使は、慶長一二年(一六〇七)から、文化八年(一八一一)までの間に、一二回来日した。それは、日本と李氏朝鮮との間の、善隣友好の誼(よしみ)を通わす国家外交の使節でもあり、一大文化使節でもあった。
 時に、正使以下五〇〇名にも及ぶ一行の来日は、壮麗な絵巻を成し、洗練された学問・芸術と、絢爛とした異文化の香りを伝えるものであった。
 この朝鮮通信使の、有形・無形の行跡は、現在も各地に色濃く遺り、近世、日本が鎖国の時代にも、ことばと慣習を異にしながら、誠信の心による伉礼を交した隣国と、その人々へのさらなる尊崇の情念を拡げさせる。世紀を超えて、今、新しい東アジア国際社会の構築の時に鑑み、朝鮮通信使の恒久的に有する史的意義への思いを深くするものである。
 その隣にあるのが「珠丸遭難者慰霊塔」です。この事件については浅学にしてはじめて知りました。1945(昭和20)年10月14日、大陸からの引揚げ者や復員軍人を乗せた珠丸(たままる)が厳原港を出航し博多に向かう途中、日本海軍が敷設した機雷に触れて爆沈したという事件です。たまたま読んでいた『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年』(加藤聖文 中公新書2015)によると、10月3日に米軍のアーノルド軍政長官が在朝日本人の本国送還を発表したことを機に本格化した動きですね。本書によると死者は545人以上だそうです。(p.82) なお碑の解説では、1954(昭和29)年に起きた青函連絡船・洞爺丸の台風による座礁・沈没(死者1155名)に次ぐ大事故と記されていましたが、1945年8月24日に朝鮮人徴用工を乗せた浮島丸が朝鮮へ向かう途中、舞鶴港で爆沈した事件(死者549名)も忘れてはいけませんね。
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 やはり韓国からの観光客が多いのですね、ハングル表記の案内表示をいたるところで見かけます。そして対馬歴史民俗資料館を見学し、受付で厳原の観光地図をいただきました。
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 しかし内容の薄いし地図の表記も満足のゆくものではありません。しかたがないなあ、と思いつつ市役所方向へ歩くと、歩道のところに素晴らしい観光地図がありました。列挙しますと「路地うら探検エリア 江戸時代の迷路を楽しもう!」「江口醤油店 フーテンの寅さんシリーズ27作目のロケ地。(マドンナ:松坂慶子) 隣の土蔵のコテ絵は見事!」「佐野屋橋 美しいフォルムの橋脚(三心円アーチ橋)は国内唯一」「醴泉院 宮本常一と仲の良い住職が住んでいました」「厳原聖ヨハネ教会の中庭 武家屋敷跡の中庭が自由に見られます」「旧藩校日新館門 幕末には勤王党の拠点でした。映画監督・大島渚さんのおじいさまも学んだとか…」「源泉こんこん 江戸時代によく氾濫していた厳原本川の取水口。100年以上前に作られた石組みは一見する価値あり!」。路地裏、迷路、鏝絵、橋、宮本常一、庭、石組み、my favorite thingsばかりです。そしてかなり正確な地図表記。うん、これは使える、さっそく撮影して活用することにしましょう。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-07-23 06:25 | 九州 | Comments(0)
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