五島・対馬・壱岐編(19):厳原(09.9)

 そしてすこし離れたところにある厳原港ターミナルに行ってみました。厳原を見守る巨大な立亀岩のわきを歩き、ターミナルビルに到着。
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 窓口で、すでにインターネットで予約してある厳原→芦辺(壱岐)間、芦辺(壱岐)→博多間のジェットフォイルのチケットを発券してもらい、二階の観光案内所に寄りました。いろいろと観光パンフレットをもらったのですがいま一つ詳細にして正確なものではありません。観光にあまり力を入れていないことが、このあたりからもわかります。そろそろ一服しますか、川端通りのビル最上階にある喫茶店でさきほどもらったパンフレットを読みながらケーキセットをいただきました。
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 さて徘徊再開。まるで刑務所にぶちこまれたような大村昆のホーロー看板や、洋風と和風が融合した異形の建物を撮影し、ぶらぶら歩いていくと国分寺に到着です。
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 こちらの山門は、1807(文化4)年に建立されたもので、先述したように、天明の大飢饉の影響により江戸ではなくここ厳原で接遇した朝鮮通信使のためにつくられたものだそうです。(客館は火災により焼失) なかなか風格のある四脚門でした。
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 そのすぐ近くにあるのが宮本常一と仲の良い住職が住んでいたという醴泉院、いったい何という方なのだろう? と疑問に思っていたら、後ほど詳しいことが判明しました。
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 厳原の町並みを見下ろせる小高い道をしばらく歩くと、雨森芳洲のがある長寿院に到着です。1668(寛文8)年、近江生まれ。師、木下順庵の推挙により対馬藩に出仕し、中国語と朝鮮語を長崎と釜山に遊学して本格的に学び、文教と外交の両面で活躍、ことに朝鮮通信使に対する厚い敬愛の念をもち、その応接に功績があった方ですね。庫裏の左手にある駐車場を抜けて山道をしばらく(はあはあ息を切らしながら)上ります。途中にあった案内表示にハングルが記されていたので、韓国からの旅行客もたくさん訪れるのでしょう。そして森閑とした雰囲気の中、静かに佇むお墓に到着。誰かが手向けた花が心に残ります。合掌。
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 山門に戻って前の歩道で紫煙をくゆらしていると、雨森芳洲の言葉を刻んだプレートがあることに気づきました。後学のために転記しておきます。
 何れの国にも、日帳日記など言ひて、書きしるしおく事あり。
 年を積みて見れば牛に汗し、棟に充るほどなれど、大方は、陰晴たるなど言へる類の事のみ書きて、政務人事にあづかりたる議論号令まで、詳しく書きたるは稀なり。
 疑わしき事あれば年はへなる人こそとて問いて決することも多し。
 それも五六十年には過ぎし。
 記録さえ確かならば、幾百年ともなき長生きしたる人を左右に置けるに同じかるべし。
 されば此国の智恵、もろこしに及ばざるひとつは、記録に乏しき故にや。
                                      「たはれぐさ」
 うーん、なるほどね。個人的な体験だけに頼らずに、記録の整備によって得られる知識・技能の共有を重視した彼らしい言葉です。蛇足ながらつけくわえると、この国の智恵が劣るのは、官僚たちが記録を公表せずに隠匿し、そのため研究や分析に十分に活用されていないということもあげられるでしょう。

 本日の一枚は、厳原の町並みです。
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by sabasaba13 | 2010-08-02 07:46 | 九州 | Comments(0)
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