五島・対馬・壱岐編(24):浅藻(09.9)

 二十分ほど走ると、(たぶん)与良内院という集落に到着しました。今朝、拝見した「対馬宗藩十万石 与良郷宿跡(八郷の一)」という郷宿の記念碑に記されていた与良はここのことかもしれません。まず運転手さんが案内してくれたのが、甘露寺。こちらには隠れキリシタンに関係するらしい石碑があります。上部がふくらんでいる珍しい作りで、後部には十字が刻んであるそうですが、残念ですが覆屋があるため見ることができません。信仰上の理由があるのかもしれませんが、後ろを見られるようにしてほしいし、解説もあるといいですね。その近くにある小学校の奥には、九州最大という宝篋印塔がありましたが、こちらも解説はなし。
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 この小学校は鰻の寝床のような木造平屋・下見板張りで郷愁をそそられる物件です。校庭から校舎と山なみを眺めながら深呼吸をすると、爽快な気分に充たされます。田んぼでは稲穂が黄金色に輝き頭を垂れていました。
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 そしてふたたび山中の道を走ると、古いトンネルがありました。運転手さん曰く、砲台や要塞のために陸軍がつくった道路とトンネルだそうです。
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 海岸へとくだり十数分で浅藻に到着。この集落ができた由来を、「忘れられた日本人」(宮本常一 岩波文庫)所収の「梶田富五郎翁」からまとめてみます。山口県周防大島の久賀出身の梶田富五郎は幼い時に縁者をすべて失い、メシモライとして漁船にひきとられました。"メシモライ"というのは、漁船で雑用をさせながら孤児を漁師として育てるという扶助制度ですね。そして1876(明治9)年、彼を乗せた漁船は漁場を求めて対馬に渡り、浅藻に住み着き始めました。厳原の問屋がつくった掘っ立て小屋で暮らし、港の海底にころがる大きな石をのけ、やがて故郷からやってくる者も増え、瓦屋根の集落ができあがったそうです。彼は最後にこう言っています。
 やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす。わしはその頃はもう嫁をもろうて、この土地の土になる気になって、漁師だけでは食えんから、子供の時なろうた菓子のつくり方を家内におしえて、わしは沖へ出る、家内は家で菓子をつくって商いをする、とまァそないにしてつつましう暮しをたてて来やしたがのう。
 はァ、おもしろいこともかなしいこともえっとありましたわい。しかし能も何もない人間じゃけに、おもしろいということも漁のおもしろみぐらいのもの、かなしみというても、家内に不幸のあったとき位で、まァばァさんと五十年も一緒にくらせたのは何よりのしあわせでごいした。(p.192)
 「土佐源氏」とならんで心に残る一編でした。その地に、今、こうして立っているのかと思うと感慨で胸がいっぱいです。離島振興法によるのでしょうか立派に整備された港と、その脇にたつ大きな煉瓦造りの倉庫、そして小さな集落にはほとんど人影は見当たりません。廃校となった小学校跡地に行くと、本にも写真として載っていた「開港の碑」がぽつんとさみしそうに佇んでいました。暮らしのできる地へ移って集落をつくり、生きていけなくなるとそこを棄てて次の地へ移る。それがかつての人間の営みなのかもしれませんね。ただ、今われわれがしている自然の生態系を搾取した上での放棄とは違い、人間にとって恵みがなくなった時の撤退だったのではないでしょうか。「自然に生かさせてもらう」という根幹があったのだと思います。山道をのぼり山越しに浅藻を見下ろせるところで下ろしてもらい、写真を撮りました。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2010-08-08 08:39 | 九州 | Comments(0)
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