「音楽の聴き方」

 「音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉」(岡田暁生 中公新書2009)読了。クラシック音楽の歴史を、当時の時代背景や時代精神とからめながら、本当に本当にわかりやすく解き明かしてくれた名著「西洋音楽史」(中公新書1816)の著者、岡田氏が書いた本ですから、面白くないわけがない、と書店の本棚で見つけて即購入。期待は裏切られませんでした。副題が語るとおり、音楽を聴く喜びをより深めるためのスタイルと言葉について、著者の豊富な体験に基づきながら、生き生きと述べられたのが本書です。音楽と言葉の関係については、私が下手に要約するよりも、岡田氏自身の言葉で語ってもらったほうがよいでしょう。以下、引用します。
 音楽文化は「すること」と「語ること」とがセットになって育まれる。しかし「音楽を語ること」は決して高級文化のステータス、つまり少数の選良の特権であってはならない。どんなに突拍子もない表現であってもいい。お気に入りの音楽に、思い思いの言葉を貼りつけてみよう。音楽はただ粛々と聴き入るためだけではなく、自分だけの言葉を添えてみるためにこそ、そこに在るのかもしれないのだ。理想的なのは、音楽の波長と共振することを可能にするような語彙、人々を共鳴の場へと引き込む誘いの語彙である。いずれにせよ、音楽に本当に魅了されたとき、私たちは何かを口にせずにはいられまい。心ときめく経験を言葉にしようとするのは、私たちの本能ですらあるだろう。(p.81~82)
 クラシック批評などで散見される「精神性」「宗教的」といった観念的な言葉に絡め取られず、音楽をより魅惑的に感じさせてくれるような、自分なりの言葉。著者はその実例として、名指揮者たちの語った言葉をいくつか紹介してくれますが、これが傑作です。「四十度くらいの熱で、ヴィブラートを思い切りかけて」(ムラヴィンスキー)、「いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで」(クライバー)、「おしゃべりな婆さんたちが口論している調子で」(チェリビダッケ)、「ここではもっと喜びを爆発させて、ただし狩人ではなく猟犬の歓喜を」(フリッチャイ)等々。 (p.61) なるほどねえ、こうした身体的・感覚的な言葉を駆使して、楽団員を共鳴させるというのも指揮者の大事な資質なのですね。また、ヨーロッパの音楽好きは、「上手い/下手」という言い方をせず、「音楽である/ない」という表現をするそうです。どうやら音を慈しみながら、語るように音楽を奏でることを心得ているか、それともモノのように音を処理しようとするかの違いらしいのですが、この表現を知ってから音楽の聴き方が随分と変わったと氏は述べられています(p.72)。うーむなるほど、一つ例をあげれば携帯電話の着信メロディは音楽ではないのですね。音程もリズムもテンポも正確無比ですが、モノの如く処理された非音楽。いかに着メロ的非音楽が巷に氾濫していることか。こうした音楽の体験に対して言葉がもつ魔法のような作用に気づき、自らも紡げるようになれば、もっと大きな喜びを得られるようになるでしょう。

 また音楽を聴く型(スタイル)についても、興味深い指摘が多々ありますが詳細についてはぜひ本書を読んでみてください。一つだけ挙げておくと、岡田氏が音楽を聴くときの目安にしているのは最終的にただ一つ、「音楽を細切れにすることへのためらいの気持ちが働くか否か」ということだそうです(p.29)。演奏会の途中で席を外したり、CDを中断したりせず、音楽という一つの時間を、音楽とともに最後まで共体験しようという気持ちになれるかどうか。これも納得です。携帯電話の発するいわゆる着メロに対する違和感と嫌悪感の理由がこれで氷解しました。大好きなメロディが途中で途切れることを許容するその無神経さが嫌なのです。参考のため、巻末にある「聴き上手へのマニュアル」の一部だけを紹介しておきます。
 他人の意見は気にしない/世評に注意。自分のクセを知る/有名な音楽家を神格化しすぎない/そのジャンルに通じた友人を持つ/音楽は視なければ分からない/最終的には「立ち去りがたさ」を大切にすること/音楽を言葉にすることを躊躇しない/音楽についての本を読む/興味のある音楽があれば、その国の言葉を少し学ぶ/その音楽が「傾聴型」か「聴き流し型」か適切に判断する/場を楽しむ/自分でも音楽をしてみる。(p.208~213)
 そして一番感銘を受けたのが、私たちが音楽を聴く理由についての考察です。フランスの文学理論家ピエール・バイヤールによれば、誰もが「内なる図書館」を持っていて、これまでに読んだ本、読んだけれども忘れてしまった本、噂に聞いたことがある本、どこかでその批評を読んだことのある本などについての諸々の記憶の断片から、それは成っているといいます。そしてこの「内なる図書館」こそ、「少しずつわれわれ自身を作り上げてきたもの、もはや苦しみを感じさせることなしにはわれわれと切り離せないもの」、つまり自分自身の履歴書、アイデンティティーの一部です。そう、音楽もこの図書館の大切な蔵書なのですね。この内なる図書館がみすぼらしいと、われわれの生も味気なく寂しいものになってしまう。著者は村上春樹氏の美しい言葉を引用されています。「意味がなければスイングはない」(文藝春秋)の中で、彼はその図書館を"記憶のぬくもり"と捉えています。
 そしてそのような個人的体験は、それなりに温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ」 (p.33)
 言葉を介して、二つの知性が共鳴・共振しているような気すらしました。言葉って、そして音楽ってほんとにいいものですね。何かしらの心構えをもって真摯に向き合えば、必ずや豊潤な喜びをもたらしてくれると、あらためて痛感します。
by sabasaba13 | 2010-09-20 06:29 | | Comments(0)
<< 南東北錦秋編(1):前口上(0... 「コンパクト版建築史 [日本・... >>