南東北錦秋編(7):山形(09.10)

 そして仙山線の列車に乗り込みました。なお山寺駅の一つ先、面白高原駅の近くには紅葉川渓谷という紅葉の名所があるそうです。
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 二十分ほどで山形駅に到着、駅構内には「第11代山形城主 最上義光」「長谷堂合戦の地」といった垂れ幕が寂しげにひろひらと風に揺れています。歴史には一家言を…もっていない私としては「はせどうがっせん???」と呟くのみ。そばにあった解説によると"出羽の虎将"(!)最上義光と"上杉の智将"(!)直江兼続が激突した「もうひとつの関ヶ原」だそうです。なんか"インドの狂える虎"タイガー・ジェット・シンvs"黒い呪術師"アブドーラ・ザ・ブッチャーみたいな、チープなネーミングには思わず緩頬してしまいます。でも観光協会にしてみれば「天地人」ブームの余沢をこうむるための切実な営業努力なのでしょうね、風景が涙で揺すれてしまいました。
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 ここで山形市について、スーパーニッポニカ(小学館)に依拠して紹介しておきましょう。山形市が内陸地方の中心となるのは、1356(正平11・延文1)年に斯波兼頼(しばかねより)が出羽按察使として入部し、馬見ヶ崎川扇状地扇端部に築城してからのことです。その後、斯波氏の子孫で戦国大名の最上義光が扇端から扇央にかけて城下の整備を行い、山形藩57万石の城下町の基礎をつくりました。1622 (元和8)年、最上氏の改易後は13回も領主交代があり、幕末には水野氏5万石にまで減少しました。このため侍町は衰微したが、町屋は紅花などの集散地となり紅花商人が活躍する村山郡最大の商業地として発展することになります。1876(明治9)年に県庁が設置され、初代県令三島通庸による近代的な街づくりが県庁周辺にかけて行われ、以来、県の行政、経済、文化などの中心として発展することになりました。
 駅裏のホテルにチェックインし荷物を部屋に置いて、さあ夕食を食べに夜の町へとくりだしましょう。ほんとは以前に訪れてぶったまげた旧済生館病院(山形市郷土館)をもう一度見たかったのですが、もうとっくに閉館の時間、これは諦めました。さきほどのタクシー運転手さんに教えてもらった山形牛の店「佐五郎」は山形駅から歩いて数分、すぐに見つかりましたが、店頭を飾る品書きを見て驚き桃の木山椒の木ブリキに狸に蓄音機。山形牛サーロインステーキ(150g)がはっせんえーんえーんえーんえーんえーん(筆者注:残響) 壱岐で大変美味しい壱岐牛ステーキを三千円で食した記憶がまだ生々しく脳裡に残っているので、この価格にはついていけません。パス。さあそれではどうしよう。♪暖かい人の情けも胸をうつ熱い涙も知らないで育った僕はみなしごさ♪と小声で唄いながら、秋風に落葉が舞い散る晩秋の街を喪家の狗のように歩き、地下歩道におりると山形市の観光地図が掲示してありました。とるものもとりあえず地元発信の情報には敬意を表しましょう、しげしげと眺めると… 大正3年に建てられた六日町教会、表現主義デザインのシネマ旭、ギリシャ・ローマ風外観の旧市島鉄砲火薬店、伊東忠太(米沢出身)設計の明善寺、大正10年に建てられた旧西村写真館、塔屋が印象的な寝装野村屋、住宅と荷蔵が連なったマルタニ、と面白怪しげな物件がテンコ盛り・目白押しです。うむむむむ、紅花商人の財力と三島通庸による近代化がうまく噛み合った結果かもしれませんね。予定変更! 夕食は後回し、さっそく写真におさめ、この地図をたよりに夜の山形を徘徊することにしましょう。でも、もし山ノ神が同伴していたら、間違いなくベトーか三下り半を叩きつけられていたでしょうね。やっぱり一人旅はやめられません。と威勢よく啖呵を切ったものの、最初の目的地「シネマ旭」まで三十分ほど歩くはめになりました。
by sabasaba13 | 2010-09-28 06:28 | 東北 | Comments(0)
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