「たいした問題じゃないが」

 「たいした問題じゃないが -イギリス・コラム傑作選」(行方昭夫編訳 岩波文庫)読了。池袋にある某書店で、背表紙から発せられる微かなオーラを感じたのか単なる偶然か、何気なく購入した本です。が、一読、これが滅法面白い。serendipityなどと大仰なことを言うつもりはありませんが、本屋を徘徊することは大事だなとあらためて思いました。本書は、二十世紀初頭のイギリスに開花したエッセイ文学を代表する四人、A・G・ガードナー、E・V・ルーカス、ロバート・リンド、A・A・ミルン(「クマのプーさん」の作者)のコラムを集成したものです。身近な話題や出来事、事件を題材に、機知とユーモアと皮肉をまじえながら軽妙に綴られるコラムは、短文なれど魅力いっぱい。ああこういう文章がいつか書けたらなあ、と文筆をしょうしょう嗜む小生としては羨望してしまいます。「中庸とバランスを大事にし、他人に迷惑をかけず、笑顔をもって日常の日々を楽しく暮らそう」という、言葉にしてしまうと何とも陳腐ですが大切な行動規範がじわじわと伝わってきました。いやもう駄弁はやめましょう、珠玉の文章を前にして恥ずかしくなってきました。何はともあれ、いくつか紹介しますのでご堪能あれ。
 無名の人やおとなしい人の権利を守るのは、小国の権利を守るのと同様に大切である。車を乗り回している連中がわざと警笛を大きくならしているのを聞くと、私は煮えくり返る思いがする。ドイツがベルギーを乱暴に蹂躙した時と同じ怒りだ。一体どういう権利があって、自分にとって邪魔な車にそんな脅しをかけながら公道を走っているのか? 自分が走っているのを知らせるのを、もっと紳士らしくできないのか? おとなしく自分の順番を守れないのか? 何様だと思っているのか? (ガードナー p.23)

 今の複雑な世界では、我々は完全なアナキストにもなれないし、完全な社会主義者にもなれない-その両方の賢明なごちゃ混ぜでなくてはならない。二つの自由-個人の自由と社会的な自由-を守らねばならない。一方で役人を監視し、他方でアナキストを警戒しなければならない。私はマルキストでもないし、トルストイ的社会主義者でもなく、両方の妥協の産物である。私の子供がどこの学校に行くか、文系か理系か、ラグビーかサッカーか、そんなことは誰にも決めさせない。こういうことは私的なことである。しかし、もし私が子供に教育を全然受けさせないとか、原始的な野蛮人になるように育てるとか、『オリバー・ツイスト』のフェイギン氏のスリ学校に入れるとか、主張したら、社会は丁重に、しかし厳しく、原始的な野蛮人は要らないし、スリには絶対に反対であり、子供には好むと好まざるとに関係なく一定の教育は受けさせるのだと、私を説得するであろう。自分が近隣の迷惑になったり、子供が社会にとって負担になったり、危険になったりするように育てる自由は私にはないのだ。
 自分が文明人か野蛮人かどちらかであるかを決める場合、普通の生活における一寸した振舞いとか、通行規則を守るか否かに基づいて判断する。日常生活ではヒロイズムや自己犠牲を発揮する瞬間は稀である。人生の総和を構成し、人生の旅を甘美なものにしたり、苦いものにしたりするのは、普通の交際上の一寸した習慣である。(ガードナー p.25~26)

 我々は不機嫌によって世の中を汚しているのだ。無作法は、日常生活の円滑な流れを阻害している点で、さまざまな犯罪を全部合わせたより罪が重いくらいだ。(ガードナー p.35)

 彼らは自らを時計のように規則的に動く機械に変えてしまい、よく仕込まれたロボットの人生を送っているのだ。人類の中のある割合の人がこういう風に生きるとういのは、もしかすると必要なのかもしれないが、こういう人に聞いてみたいことがある。あなたたちは、そんなに朝早く規則正しく起き出しているけど、そうするのに使っている莫大な精力を、もっと大事な事に取っておいたほうがよいと反省したことはないのですか、と。(リンド p.136)

 目覚まし時計は、精神覚醒剤としては面白いけれど一つ欠点がある。音を出すのだ。(リンド p.137)

 重要でない事柄に関しては機械のように振舞うのが、成功の秘訣だ。機械的に生きるとは、本やメガネを愚かに探すのに夢中で、人間本来の生き方から外れるというようなことなく、のびのびと生きることを意味する。(リンド p.145)
 なお一番心に残ったコラムが、リンドの「忘れる技術」です。記憶することも大事だけれども、忘却もまた人間を幸福にするのに一役買っていると述べたうえで、人はえてして記憶しておきたいことは忘れ、忘れたいことは覚えているように生まれ付いているのだと看破します。そして場合によっては、記憶は地球上で最大の悪の一つであると主張します。彼曰く「不満の記憶は血液を汚す毒である」。特に国家の場合は、記憶がしっかりあることが災害の種になります。ボーア戦争は「マジューバ丘を思い出せ!」という叫び声で始まり、アビシニア戦争は「アドワを思い出せ!」という叫び声で始まりました。国家や民族が、蒙った被害を記憶し、他者に与えた害を忘れることによって、いかに多くの災厄や悲劇を招いたことか。リンドが紹介しているサー・ホレス・ブランケットの「アイルランドの歴史について、イギリス人は覚えておくべきであり、アイルランド人は忘れるべき」という言葉は痛烈ですね。アジアの、いや世界の平和は、誰が何を忘れ、何を記憶するかにかかっているのかもしれません。口角から泡を飛ばして自虐史観を弾劾するみなさんに、ぜひ読んでいただきたいコラムです。
 記憶は優秀な諸民族を鼓舞激励した源であるが、政治においては大きな誤りに導く原理でもある。過去を思い出すべき時もあれば、過去を忘れるべき時もある。もしあらゆる人が過去を記憶していれば、人を許す人など居なくなるであろう。(p.159)

by sabasaba13 | 2010-10-06 06:25 | | Comments(1)
Commented at 2010-10-09 18:00 x
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