京都錦秋編(2):東京駅(09.12)

 旅費節約のため「のぞみ」ではなく16:33発の新幹線「ひかり」を選択、休暇をとって東京駅へと向かいましたが、ふと聖橋を見たくなって御茶ノ水駅で途中下車しました。美しいアーチを静かな水面に描くと、やや色づきはじめた斜面の草木を撮影、この眺めは昔から大好きでした。たしか江戸時代初期に、江戸城の守りを固めるために、神田台を掘り割ってつくった人工の谷なのですね。結果としてたまたまそうなったのかもしれませんが、数百年後には自然にできた景観のように見える土木工事の良いお手本だと思います。
 そして東京駅に到着、まだ時間があるのですこし構内と周辺を散策することにしました。まずは浜口雄幸首相の狙撃現場、以前から一度訪れようと思っていたのですが今回やっと叶いました。場所は、中央通路にある新幹線への乗換え口のあたりです。周囲と色の違うタイルにぽっちが埋め込まれ、そばの柱に下記のような解説プレートがありました。
浜口首相遭難現場
昭和5年11月14日午前8時58分、内閣総理大臣浜口雄幸は、岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、午前9時発の特急「つばめ」号の1等車に向ってプラットホームを歩いていた。このとき、一発の銃声がおこり浜口首相は腹部をおさえてうずくまった。かけつけた医師の手によって応急手当が加えられ、東京帝国大学医学部附属病院で手術を受け、一時は快方に向ったが翌昭和6年8月26日死去した。犯人は、立憲民政党の浜口内閣が、ロンドン条約批准問題などで軍部の圧力に抵抗したことに不満を抱き、犯行におよんだものといわれている。
 いやはや今まで何回もここを通り過ぎたのに、不覚にも気づきませんでした。
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 世界恐慌そして昭和恐慌という吹き荒ぶ嵐の中、果敢に日本の舵取りをし、志半ばにして凶弾に倒れた彼に思いを寄せしばし佇みました。長文ですが、浜口雄幸の言葉を紹介します。
 政党政治は、少なく共我が国に於ては、今の所、大切なる試験時代である。試験時代には傍目をふってはならない。…
 我が国民は、政党政治の樹立を認識するや否や、直ちに其の弊害の甚しきに失望せり。かかるが故に国民は政党政治の弊害が、制度其の物の罪なりや、将来又政治家其の人の罪なりやを深く弁別するに暇あらずして、早くも政治の現状に失望し、将来を悲観せり。此の失望と悲観とは我が国運の前途に恐るべき暗影を投じたり。…
 国民は此の如き議会の亡状に対して、始めの内は呆れ果て、其の次には呆れる程度を超えて議会政治に冷淡になり、其の次には議会政治を嫌悪し、次には議会政治を否認せんとする傾向を生ずるに至ることがないものであろうか。…今日に於て改むるところがなかったならば、国民の感情は何処まで行くか測り難いと思うのである。
 とても昔の話とは思えず、心胆寒からしめるものがあります。議会の亡状とそれに対する国民の冷淡、そして議会政治への嫌悪と否認が日本をどこに導いたのか、もうわれわれは歴史で学んでいるはずですが、状況は今でも大きく変わっていないような気がします。たとえポンコツで調子が悪いとはいえ、今のところ政党政治に代替する車はありません。みんなで力を合わせ知恵を出し合い、修理したり降りて押したりして乗っていくしかないと思うのですが。われわれの"試験時代"はまだまだ続いているようです。なお狙撃犯の名前は佐郷屋留雄で、彼の手記によると犯行の動機は、ロンドン海軍軍縮条約の調印が、軍部の無視、天皇大権の干犯、そして国防への脅威にあたるというものです。余談ですが、彼は第一審・控訴審で死刑を宣告されますが、1933年、皇太子誕生(現天皇)によって恩赦減刑が行なわれ、死刑執行を免れます。また1938年には憲法発布五十周年記念、1940年には紀元2600年と、ことごとく恩赦に浴し、1940年に小菅刑務所を出所したそうです。
 なお狙撃された直後の浜口首相を撮影した写真があるのですが、その背後で薄笑いを浮かべている駅員(警官?)が写っています。政党政治への不信と嫌悪、暴力の容認、当時の風潮を物語る恐るべき写真ですね。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2010-11-20 06:18 | 京都 | Comments(0)
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