日本橋七福神編(2):(10.1)

 人形町通りに出ると、目の前が甘酒横丁、そして「蛎殻銀座跡」という解説プレートがありました。なんでも寛政の改革によって銀座が一旦廃止され、あらためてここに幕府直営の度合いを強めた新銀座として再発足したそうです。
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 その先の交差点には「玄冶店(げんやだな)跡」という解説プレートがありました。(中央区日本橋人形町3-8) 幕府医師の岡本玄冶の拝領屋敷があったところで、歌舞伎の「世話情浮名横櫛」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となったところだそうです。「いやさお富、久しぶりだなあ」というあれですか、歌舞伎に関しては全くの浅学、これ以上のコメントができないのはご寛恕ください。
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 ふたたび路地に入って末廣神社をめざして東へ向かうと、面白い物件を二つゲット。どう見ても特殊飲食店にしか見えない歯医者さん、そして「明朗」「明朗」「明朗」と連呼する麻雀屋の入った古いビル。最上部には「店商谷(?)」という文字の跡がありました。
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 その先に、ビルに挟まれて窮屈そうに佇んでいるのが、毘沙門天を祀る末廣神社です。ただ扉が閉ざされていて、ご尊顔を拝することができませんでした。
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 すこし歩くと、寿老神を祀る笠間稲荷神社です。
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 その近くに「小川橋の由来」という立派な記念碑がありました。なんでも明治19年(谷崎潤一郎が生まれた年!)、小川侘吉郎巡査が清水定吉という大泥棒を捕えましたが、その際に負った傷がもとで数年後に亡くなったそうです。その死を悼んで小川橋と名づけられたそうな。
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 そして人形町通りと並行する路地を北へと歩いていきましたが、このあたりでは古い建物をあまり見かけません。おっ蕎麦の名店「砂場」だ、へえここにあったんだ。その先の路地をふと覗くと、酒処「おでん ナポリ」。おでんとナポリ、スパークがおこりそうな意表をついた取り合わせに感心。
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 人形町通りを渡り、堀留町にあるのが、恵比寿神を祀る椙森(すぎのもり)神社です。社殿のとなりには「富塚」がありました。目黒不動尊湯島天神谷中感応寺がいわゆる「江戸の三富」として有名ですが、こちらでも富籤が興行されていたそうです。
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 さらに北西へとすこし歩くと、こちらも恵比寿神を祀る寶田恵比寿神社に到着。解説によると、この神像は、運慶作、あるいは左甚五郎作とも言われているそうです。運慶と左甚五郎、時代がまるっきり違うし、接点もない二人を作者として措定するあたり、いいかげんでいいですね。
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 そして掉尾を飾る小網神社へと向かいましょう。企業のビルが林立する道を南東へと歩いていくと、「東京糖商ビル」だの「第2洋糖ビル」だの、やたらと砂糖関係のビルや企業が多いのが眼につきました。近くに東京穀物商品取引所がある関係なのでしょうか、ご教示を乞う。
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by sabasaba13 | 2010-12-27 06:32 | 東京 | Comments(0)
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