目白編(2):目白ヶ丘教会(10.1)

 すこし東へ戻って二つ目の信号を南へと進むと、閑静な住宅街という趣です。びっくらこいたのが、道路のど真ん中に屹立する巨木です。ご丁寧に、その部分だけ道が両側にふくらんでおり、車線も木をよけるように半円状にカーブしています。前掲書によると、このあたりはいわゆる「目白文化村」、明治時代から別荘地として開発されていたそうです。おそらくその時のプランナーが、この木に敬意を表して残したのでしょう。あるいは注連縄がはってあるので、神木だったのかもしれません。いずれにせよ、見識ある行為だと思います。この光景が見られただけでもここまで来た甲斐があったというもの。
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 その先にある白い教会のところでふと足が止まりました。むむむ、これは只者ではないぞ。切妻屋根のシンプルな外観ながらも、連続する縦長の窓、ステンドグラスの洒落た意匠、斬新なフォルムの鐘楼、そそくさと近づくと日本バプテストキリスト教目白ヶ丘教会です。
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 たしか設計は遠藤新… これまでも自由学園明日館、上山田温泉「豊年虫」、真岡の久保講堂と、彼の作品と出会い、これからも追っかけていこうと思っていましたが、ここで偶然出くわすとは。己の強運には驚きます。遠藤新について、ウィキペディアを参照しながら紹介しておきましょう。
遠藤 新(えんどう あらた 1889-1951) フランク・ロイド・ライトに学び、そのデザイン・空間を自己のものとして設計活動を行った建築家。福島県相馬郡福田村(現新地町)出身。第二高等学校を経て東京帝国大学建築学科卒業。明治神宮の建設に関わった後、1917年、帝国ホテルの設計を引き受けたライトの建築設計事務所に勤める。建設費用がかかり過ぎるとしてライトは解雇され、途中で帰国してしまうが、遠藤ら弟子が帝国ホテルを完成させた。また、自由学園、山邑邸も、ライトの基本設計を元に完成。1935年からは満州と日本を行き来して設計活動を行った。1945年満州にて第二次世界大戦の終戦を迎えたが、翌年心臓発作で入院し、半年後に日本に帰国した。1949年からは文部省学校建築企画協議会員を務め、戦後占領下の日本における学校建築のあり方に対する提言を行った。1951年4月体調を崩し、東大病院に入院。2ヶ月後、同病院にて死去した。
 帰宅後、インターネットで調べてみると、竣工は1950 (昭和25)年、彼の遺作にあたるそうです。こちらでも催しごとが行われており、入るのは遠慮したのですが、ぜひ内部も拝見したいものです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-01-31 06:19 | 東京 | Comments(0)
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