「父が子に語る世界歴史」

 「父が子に語る世界歴史(1)~(6)」(ネルー みすず書房)読了。これまでの世界と今の世界を知りたい、これからの世界を考えたいという大それた思いは変わりません。そのために、世界史の要所を手際よくまとめた通史を追い求めています。今回読んだのは、その中でも古典とも言うべきもの、残念ながら絶版ですが古本屋でわりと容易に入手できると思います。著者のネルーは言うまでもなく…と言いたいのですが、もう人口に膾炙することも少なくなりました。釈迦に説法ですが、スーパーニッポニカ(小学館)から抜粋して紹介いたします。
 ネルー (1889‐1964) インドの政治家、思想家。インド共和国初代首相(在職1947~64)。北インド、アラハバードの著名で富裕な弁護士モーティーラール・ネルーの長男として生まれる。1905年にイギリスに渡り、ハロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ。インナー・テンプル法院からバリスター(法廷護士)の資格を得て、12年帰国。法廷生活に飽き足らず、M・ガンディーの指導下で1919年に始まった第一次サティヤーグラハ(非暴力抵抗)闘争に参加し、完全に政治運動に踏み切る。ある意味で保守的で形而上学的理念に固執するガンディーと、宗教への関心も薄く合理主義的思考が顕著なネルーの間には大きな隔たりがあり、しばしば両者は衝突したが、ガンディーはつねに国民会議派内の勢力のバランスに心を砕き、そのなかでのネルーの地位の確立に努めた。ガンディーの支持によって、28年の会議派書記長を経て、29年を皮切りに36年(年2回)および46年と四度も会議派議長の重責を担う。この間、9回、通算9年間を政治犯として獄中で過ごす。1947年のインド独立とともに外相を兼ねる初代首相となり、副首相兼内務相のサルダール・パテールとともに意欲的な国家建設に着手。経済面では計画経済や国営部門重視などの政策をとるが、地主・資本家階級の発言力が強い会議派政権の下では、かつて構想した社会主義社会の建設は進められなかった。政治面では議会制民主主義の定着とそのなかでの会議派勢力の強化に重点が置かれた。外交面では54年に中国との間で平和五原則を結び、翌年この原則に基づいたバンドンでのアジア・アフリカ会議で指導的役割を果たした。その後も第三世界の連帯、非同盟外交展開の主要な担い手として国際的に活躍した。一方、50年代後半以降、土地改革の不徹底、5か年計画の目標の不達成などによって、国内的には政治的危機が高まった。軍事費の莫大な支出、しだいに肥大化する外国資本への過度の依存などがネルー政権の経済政策に暗い影を投げかけた。とくに62年の中印国境紛争でインドが敗北したあとは、ネルーの指導的地位が著しく低下した。そして後継者問題が表面化するなかで、64年5月27日に老衰のため死去した。
 本書は、1930年11月から1933年8月までの三年間に、彼の周期的な投獄によってほとんど教育をみる機会がなかった幼い一人娘インディラのために、インドの数カ所の刑務所内で書かれた書簡をまとめたものです。その内容は、世界の歴史をできるだけ平易な言葉で語るというもの。その意図を、娘に語った文をいくつか引用します。
 歴史を読むのはたのしみだ。だが、それよりももっと心をひき、興味があるのは、歴史をつくることに参加することだ。(①p.18)

 わたしは、少年少女諸君がよく一国だけの歴史をまなび、それもいくつかの日附けや、わずかばかりの事件を、そらで暗誦しながらやっているのをみて、大へんつまらないことをするものだとおもう。歴史というものは、まとまりのある一つの全体なのだから、もしおまえがよそでおこったできごとを知らないならば、おまえはどこの国の歴史をも理解することはできないだろう。わたしは、おまえが一国か、二国かに局限するような、せまくるしい歴史のまなびかたをせずに、世界じゅうのことを研究するようにねがう。いろいろな民族の間には、われわれが想像しているほどの大きなちがいはないものだ、ということを、いつも心にとどめておきなさい。(①p.20)

 わたしがこの手紙でしようと思うことは、ただおまえの世界歴史への興味をよびおこし、そのいくつかの側面を見せ、大むかしから現代にいたるまでの、人類の活動のいくすじかの糸をたどらせようとするまでだ。(③p.250)
 日附けや、事件を、暗誦するだけのつまらない歴史、ああ覚えがあります。中学や高校での日本史の授業や、大学の受験勉強で嫌になるほど経験しました。暗記するだけの視野狭窄的な歴史に、いったいどんな意味があるのでしょう。ネルーがここで語っているのは、全く違う歴史です。おもしろく、広大な視野をもち、いろいろな民族間の優劣や序列ではなくその共通点に目を配り、現代にいたるまでの人類の活動をたどり、なによりも自らの手でそれをつくることに資するような歴史。その高邁な志に頭を下げるとともに、困難な環境の中でそれを書き綴り成し遂げた彼の不屈の闘志には感銘すら覚えます。また時代や地域を融通無碍、自由自在にとびまわる、のびやかで平易な語り口も魅力ですね。その叙述を貫くバックボーンは、先述のように「歴史をつくる」ということ。インドの過去と現状を分析し、そして"独立"という未来を考えつくるにあたって、資本主義や帝国主義に関する彼の叙述はひときわ舌鋒を鋭くなります。叡智にあふれたいくつかの文を引用しましょう。
 こうしてヨーロッパの人たちは、宗教上の信仰や教義の問題で、おたがいどうしの頭をはちわる習慣を(かんぜんにではないけれども)すてた。そのかわり、かれらは経済や、社会の問題で、相手の頭をはちわるようになった。(③p.9)

 われわれは、それ(※機械)が生みだすところの富の恩恵を享受しなければならない。しかし同時に、その富が、それを生産した人たちのあいだで、公平に分配されるようにしなければならない。(③p.25)

 いままでこの手紙を書きつづけながら、わたしは、文明の基本となった、人と人との間の協力の発達を説いて来たはずだ。ところが、そこへレッセ・フェールと新興資本主義は、ジャングルの法則をもちこんだ。カーライルは、これをさして「豚の哲学」とよんだ。(③p.37)

 資本主義の基礎をそっくりささえているものは、仮借なき競争と搾取であり、帝国主義はその程度が進んだものだからだ。(③p.165)

 それは、まったくかなしむべき、ばかげたことのように思われる。だが、一つの国民が他の国民を、一つの人民が他の人民を、そしてまた一つの階級が他の階級を支配するところでは、かならず摩擦と、不満と、反抗と、搾取される国民、人民、階級による、搾取者の放逐のこころみが起る。そして、この、あるものによる他のものの搾取こそは、その中に帝国主義をはらむところの、資本主義とよばれる現代社会の根底なのだ。(③p.198)

 このいちばんあたらしい種類の帝国は、土地をすらも領有しない。それはただその国の富、もしくは富を生む諸要因を領有するにすぎない。(④p.125)

 かれの資本を、インドや、中国や、エジプトや、この種の賃金のやすい国ぐにに投資しながら、かれは本国のイギリス人労働者を賃金引下げでおびやかした。そうしなければ、かれはインド、中国等々の低賃金の産物と競争することができない、とかれはかれらに言った。それでもイギリスの労働者が賃金の切下げに承服しないときには、資本家はかれらに言った。かれは遺憾ながら、イギリスにおけるかれの工場を閉鎖し、資本を他の方面に投資するの余儀なきにいたった、と。(⑤p.22)

 科学と、産業の進歩は、すでに現存社会制度をはるかに抜いて先行している。それはおびただしい食糧や、有用な生活物資を生産する。ところが資本主義は、それらを処理する方法を知らない。まことに、それは往々にして、生産物を廃棄したり、生産の抑制にうき身をやつしさえする。かくして豊饒と、窮乏との併存という、よにもめずらしい景観が、われわれの眼前に展開する。(⑤p.237)

 社会は、いかに生産するかをまなんだが、生産されたものを、いかに分配すべきかをまなばなかった。(⑥p.109)

 関税では日本製品をふせぎきれなかったので、市場はかんぜんに日本製品にたいして閉鎖されるか、もしくは一定量だけの物資の輸入をみとめる割当制度が採用された。日本製品がこのようにして諸外国からしめだされるとなると、日本の厖大な工業はどうなることだろうか? その経済組織が根本からくつがえることになるだろうし、もしはけ口を見出すとすれば、経済的報復か、場合によっては戦争が招来されることとなるだろう。この種のことがらは、資本主義の浪費的な競争のもとでは、不可避に起ってくるものの順序なのだ。(⑥p.160)

 だからかれは、かれ自身はそれをべつの名まえでよんだけれども、事実上は産業にたいして大幅に、国家統制を導入したわけだ。それはじっさいのところは、労働の時間と、条件を調整し、「しのぎをけずる競争」を防止するところの、一種の社会主義の方法であった。かれはそれを「計画立案と、計画実行の監視における協力」と称している。(⑥p.198)

 ふるい型の資本主義の時代が、すでに過ぎ去ったということは、一般の通念となった。この分捕り主義の経済、このなんの計画もなく、浪費と、抗争と、周期的な恐慌をともなう、ばらばらの、取り放題、あさり放題の政策は、おさらばをされなければならない。そして、それにかわって、なんらかの形式の計画的、社会主義的経済、ないしは協力経済が確立されなければならない。これはかならずしも、労働者階級の勝利を意味しない。なぜならば、一国は有産階級の利益のためにも、準社会主義的基調において組織されうるからだ。国家社会主義と、国家資本主義とは、それほどかわったものではない。真の問題は、だれが国家を支配し、だれがそれによって利益するか、社会ぜんたいか、それとも特定の所有者階級か、ということに存する。(⑥p.204~205)

 百五十年前のフランス革命以来、次第に政治的平等の時代が実現されたが、しかしいまでは時代はかわり、それだけではじゅうぶんではない。デモクラシーの限界は、いまでは経済的平等をも包含しうるところまでひろげられなければならない。これこそは、われわれのすべてがその洗礼をうけつつある革命であり、経済的平等を確保し、そのことによってデモクラシーに十全の意味を付与し、われわれ自身を科学と技術の進歩の列に伍せしめようとする革命なのだ。(⑥p.246)

 しのぎをけずる浪費的な競争、豊饒と窮乏の併存、私たちがいまだにかかえる宿痾を簡潔な言葉で十全に語っています。そしてそれを解決するためには、経済的平等と人々の協力関係をうちたてるためには、生産されたものをいかに分配すべきかを考えるべきことも。ネルーはその大いなる課題について考えるため、歴史について思いを馳せ、そしてそれを若者と分かち合おうとしています。凶暴で、破壊的な、粗野な世界を克服するために。

 われわれは、傍観し、手をつかねて待つ間に、われわれがもちたいと思うような種類の世界のためにはたらこう。人間が、凶暴で、破壊的な、その粗野なままの段階から進歩をとげてきたのは、自然の命ずるままにちからなくそれに屈服したからではなく、往々にしてそれに挑戦し、それを人類の利益のために支配しようと意欲したがためであった。
 今日もやはりおなじことだ。明日の創造は、おまえたちと、おまえたちの世代、すなわち、これから成長して、この明日のためのつとめを果たすべく、自分たちをきたえつつある、全世界の幾百万とない少年や、少女の肩にかかっているのだ。(⑥p.232)
 彼が導いた独立インドが、その理想にどこまで近づけたのかは不学のためコメントはできません。ただ核不拡散条約(NPT)に入らないまま核武装している現状は、少なくともネルーの思いとは遠いところにあるのではないかと思います。核(原子力)産業生き残りのために、そのインドとの原子力協力協定締結に向けて交渉を開始した日本政府も同時に批判したいですね。
 なお余談ですが、イギリスに支配されていた時代についての記述で、「赤ん坊をかかえた母親は、ややもすれば、赤ん坊が仕事のじゃまにならぬように、かれらに毒をのませた」(③p.170)という一文がありました。報道写真月刊誌「DAYS JAPAN」(08.9)の記事「格差の中の子ども (雨宮処凛)」に、新宿歌舞伎町で、夜の仕事に出かける前に子どもに睡眠薬を飲ませるシングル・マザーの話があったことを思い出しました。
by sabasaba13 | 2011-06-14 06:17 | | Comments(0)
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