「全体主義」

 「全体主義」(エンツォ・トラヴェルソ 平凡社新書522)読了。「宇宙船地球号」という物言いをときどき耳にします。本当に、みんながそう考えそう行動してくれればよいのですが、現実は地球全体がアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所と化しているのではないかという、身が縮むような悪夢にとらわれています。人類全体が管理する側/管理される側に二分され、前者が富を独占し、後者はさらに価値のある人間/価値のない人間に二分される。富はないけれども価値がある人間は死ぬまで酷使され、富も価値もない人間はある時には虐殺されある時には死に至ろうとも放置される。私たちに深甚なる衝撃を与えた、もう二度と繰り返すまいと誓ったはずの絶滅収容所が、ワールド・ワイドに現出しているのではないのか。より巧妙な形で、ある地域では隠微な形で、ある地域では露骨な形で… だとすると(でなければよいのですが)、こうした収容所を作りだしたナチズムやスターリニズム、いわゆる全体主義について、もう一度振り返ってみる必要があるのではないかと思います。そうした思いにとらわれていた矢先に、書店の店頭で出あったのが本書です。
 あるときは資本主義の一つのかたちであるナチスドイツの批判に使われ、あるときは共産主義から生まれたスターリンが君臨するソヴィエト連邦の批判に使われてきた曖昧な概念、〈全体主義〉。それを精緻に分析しながら、二十世紀を読み解こうというのが著者の意図です。さて全体主義とは何ぞや? 氏はこう定義されています。
 その終末論的な約束、そのイコン、その儀式とともに、全体主義は「世俗の宗教」として現われ、そうして市民社会を解体し、人びとを信者の集団にかえてしまう。個人は粉々にされ、国家に吸収されて無にも等しいものになる。国家はひとつの緊密な単位であり、そのなかに個人は溶解し、人間は〈大衆〉を形成するのである。(p.20)

 古代から十九世紀までに現われた独裁政治とは質的に異なる政治システム、全体主義は、ボルシェヴィズムのロシア、ファシズムのイタリア、ナチズムのドイツに体現されているが、これら三つの体制には数多くの共通点がある。極端な中央集権、社会の軍事化、統制経済政策、学校やコミュニケーション・システムの政治的管理などである。(p.49)
 また他の箇所では、「人間の多様性が出会う場としての政治的なものを破壊するという、実践的活動(p.23)」、「人間を、その意見、その振舞い、その生活様式を、規格化する意志(p.145)」と定義されています。一言で言えば、多様性の否定と個人の消滅ということでしょうか。一個の人物また法的な人格としての個性を抹殺し、人間を裸に、非人間的なものにしてしまうのですね。その対極に、国民国家のシステムから除外され、一切の法的認知を受けていない、この世に生きる価値のない集団を生み出し、その物理的な排除へと向かうのも全体主義の特徴です。それを最もよく現わしているのが強制収容所です。えてしてわれわれは、こうした事態は"二十世紀の悪夢"と考えがちなのですが、実は十九世紀半ばに、人類を優等種と劣等種に分けるイデオロギーおよび行動はヨーロッパで始まっているのですね。そう、帝国主義・人種主義・植民地主義です。
 大量殺戮と官僚制度を融合させた植民地主義は二十世紀の殺戮の壮大な実験室となった。アジアやアフリカで、軍隊と植民地政府を手段にして「文明化の使命」が遂行されたが、その帰結は、多くの場合、合法的と見なされた「劣等人種」の虐殺であった。ナチズムは、同じ事柄をヨーロッパの中心に適用したにすぎないのである。(p.111)
 このコアとなる人種差別主義に、科学技術を駆使した道具的合理性を加えたのが強制収容所です。著者はこの"地獄の同盟"が二十世紀の恐怖を理解する鍵だと述べられています。
 ただしばしば一括りにされて語られるスターリズムとナチズムを、きちんと峻別することが重要であり、さもないと歴史の解読を困難にするだろうと指摘されています。いずれも断罪されるべきことに疑問の余地はありませんが、スターリニズムは、ツァーリ独裁の延長線上に近代技術を組み合わせたもので、その至上目的は経済の発展にありました。よって目的は合理的だが、鉄道や化学工場を建設するために、何百万もの人間を強制的に移住させ奴隷化して用いるなどその手段は不合理でした。言うなれば、経済発展に必要な本源的蓄積を、最も悲劇的な形で強行したとも言えます。ちなみにヨーロッパはこの過程を労働者と植民地民衆の犠牲の上にすでにすませていました。またスターリニズムが牙を剥いたのはソヴィエト市民、言わば内に向けられた暴力です。これに対してナチズムが展開した暴力のさまざまな形態のすべて、優生学、収容所の実践、植民地での虐殺、第一次世界大戦中におこなわれた大量虐殺の最初の実験などは、西洋の長い伝統に由来しています。そしてその目的はユダヤ人という"劣等人種"を抹殺し、ドイツ人という"優等人種"のための「生存圏(Lebensraum)」をヨーロッパに確保するためという不合理なものでしたが、その手段はきわめてシステマティックかつ合理的なものでした。またナチズムが牙を剥いたのは、ユダヤ人・ロマ・同性愛者といった外に向けられたものです。
 こうした分析でかなり頭の中がすっきりとしました。もちろん、ナチズムとスターリニズムを峻別することも重要ですが、現今の世界を考察する上でその共通点に目を向けることも大きな意味があると思います。国家権力が個人の多様性を否定し規格化し、ある目的を達成するために、内であれ外であれ"価値がない"というレッテルを貼りつけた人々を科学技術を駆使してシステマティックに"抹殺"していく。全体主義をそう考えると、今まさに世界がそういう状況に陥りつつあるのではないでしょうか。ただ、価値の有無を決めるのが、市場であり巨大企業であるというのが新しい状況だと思います。ふたたび眼前に現出した荒涼たる風景… 筆者は最後にこう語っておられます。
 全体主義の概念はあまりにも悪用されてきたが、新しい世紀のなかで、自由の地平はひらいておかねばならない。強制ではなく社会関係の物象化を通して行為や思考が画一化される時代、ビッグ・ブラザーではなく経済とその「抑制しえない」法が絶対的な権威となり、領土の征服ではなく市場の征服が権力の目的であるような時代、つまり「グローバリゼーション」の時代にあって、全体主義の概念が他の脅威を隠蔽してはならないだろう。全体主義批判の糸をふたたび手に取ることは、二十世紀が経験した政治的挫折の記憶を新たにすることであり、深淵をまえにして柵をめぐらせ、荒涼たる風景にひらいた露台に欄干を設けて、精神の防衛線を整備することである。(p.190~1)

by sabasaba13 | 2011-07-06 06:14 | | Comments(0)
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