「ペーパーバード」

c0051620_7214681.jpg 先日、山ノ神と映画「ペーパーバード」を、銀座テアトルシネマで見てきました。「美女と警官と公園があれば映画はできる」と言ったのはチャップリンでしたっけ。私なりに解釈すると、面白い映画を作るには大仰なセットも道具も必要ない、ということでしょうか。心をひきつける脚本とアイデアに満ちた工夫・仕掛けと素晴らしい演技、そして何よりも映画にかける熱い思い、これらがあいまって素敵な映画ができるのだと思っています。よってコンピュータと資本を駆使したスペクタクルな学芸会的映画に食指が動かなくなってもう何年になるでしょうか。本作は、そういう映画らしい映画、お薦めです。
 舞台はフランコ独裁政権下のスペイン・マドリード。スペイン内戦でフランコ軍の爆撃により妻子を殺された芸人のホルヘは、反フランコの地下活動に身を投じます。一年後、マドリードに舞い戻ったホルヘは、かつての相棒エンリケと、彼が引き取った孤児ミゲルとトリオを組んで芸人生活に復帰します。しかし亡き息子の俤を思い起こさせるミゲルに冷たくあたるホルヘ。しかし彼を父のように慕い必死で芸に取り組むミゲルに、やがて彼の心はほだされていきました。その一方で、軍事独裁政権による反体制運動への弾圧は熾烈を極め、劇場へもしばしば軍がやってきて監視を行ないます。ホルヘの活動歴に目をつける将校、しかし反フランコ的言動を繰り返すホルヘ、冷や冷やしながらそれを見守るエンリケ。そうした中、この一座がフランコ総統の前で講演を行なうことになりました。さあどうなる? ここから一気にクライマックスへと雪崩れ込んでいきます。もちろん結末には触れませんが、手に汗握ること請け合いです。
 陳腐な言い方ですが、涙あり笑いありの良質なヒューマンドラマ。こまっしゃくれた言動の中にあどけなさをうかがわせるミゲルを演じたロジェール・プリンセプの演技も見事でしたが、私が心惹かれたのはホルヘを演じたイマノール・アリアスです。妻子を奪われた悲しみ、ファシズムへの怒り、芸への専心、そしてミゲルに対してじょじょに芽生えていく愛情を、完璧に演じ切りました。ハンフリー・ボガードと菅直人を足して二で割ったような渋い味の容貌も素敵ですね。また映画の随所で見られるさまざまな芸、いろいろな芸人たちの暮らしぶり、速射砲のような言葉のやりとりも楽しむことができました。最後の場面では、芸人として大成したミゲルが舞台に登場し、大観衆を前にスピーチを行いますが、もうここで私の涙腺は決壊寸前。この老年になったミゲルを演じたのがエミリオ・アラゴン監督の父君ですが、その万感の思いを秘めた表情には圧倒されました。ただ惜しいのは、そのスピーチにあまり内容がなかったこと。かつてホルヘも唄った『フランコとは暮せない』という反体制運動の歌を唄って幕となったのですが、もしここで『ブラス!』におけるダニーのような圧巻のスピーチがなされていたら間違いなく嗚咽していたことでしょう。ほんとに惜しかった。
 なお余談ですが、フランシスコ・フランコによる独裁は第二次大戦後も三十年にわたって続き、1975年の彼の死、そして国王ファン・カルロス1世による民主化の推進によって終焉することになりました。この間の、スペインの人々の苦悶や抵抗や悲嘆に思いを馳せるのも大事だと思います。そして日本の戦後にも思いが至ります。本稿を執筆しているのは八月十五日の"終戦記念日"、なぜ"敗戦"と言わないのかとか、記念日たるべき日はポツダム宣言を受諾した八月十四日か降伏文書に署名した九月二日ではないかとかいったつっこみもしたいのですが、それはおいておきます。この日を境に、日本は生まれ変わったという言説をよく聞きますが、はたして本当にそうなのでしょうか。あのアジア・太平洋戦争を引き起こした構造自体はあまり変化していないのではないかと考えています。加藤周一氏の言を借りれば、閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別… 福島原発事故も、こうした構造をもとにして起こるべくして起こった悲劇ではないのでしょうか。
 なお映画館に置いてあったチラシに、原発関係の映画二本がありました。ベラルーシ共和国のホット・ゾーンに今も暮らす人々を脅かす被曝被害を描いた『チェルノブイリ・ハート』、そして22年前に制作された(!)、福島原発の危険性を告発する『あしたが消える ‐どうして原発?‐』という、ドキュメンタリー映画です。"あしたが消える"か…もうあしたは消えたのかもしれません。
by sabasaba13 | 2011-08-23 07:22 | 映画 | Comments(0)
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