クロアチア編(31):ドブロヴニクの歴史(10.8)

 さて、それではドブロヴニクについて紹介しましょう。もともとはこの近くにローマ植民市があったのですが、7世紀にスラヴ人の攻撃を受け、ローマ人たちはこのアドリア海の岩礁に逃れて、家を建てて住み着きはじめました。これがドブロヴニクのはじまり。やがてスルジ山の斜面に住むスラヴ人から水や食料を得たり、畑地の耕作を許されたりすると、両者の関係が良好となってきます。12世紀にはローマ人とスラヴ人の町が合併、海峡も埋め立てられ城壁もつくられ、こうして現在のドブロヴニクができあがりました。当初はビザンティン帝国の保護を受けた自由貿易都市として出発しましたが、13世紀にセルビアのブルスコヴォ鉱山で銀・銅などの採掘がはじまると、これらの売買と仲買交易で莫大な利益をあげることになります。彼らはスラヴ語が話せたため、ヴェネツィア人が手をつけにくかったバルカン半島内陸部との交易を一手に担えたのですね。その後、一時期、ヴェネツィア共和国の支配下に置かれますが、クロアチア‐ハンガリー連合王国によって自由独立都市として承認され、1418年にドブロヴニク共和国となります。そして15~16世紀にドブロヴニクは黄金期を迎えます。セルビアの鉱物、イタリア・スペインの羊毛、レパント地方の絹、アドリア海の塩・塩漬けの魚・珊瑚などの交易で栄え、ヨーロッパ各地に商館を設置し、殷賑を極めました。15世紀以降はオスマン・トルコ帝国の保護国となりますが、実質的な自由を確保し、外国による軍隊の駐留や政治への介入を阻止し、議会による自治を守り抜きます。巧みな外交政策で強国を操り妥協点を見出し、自由を買うための貢納金を確実に支払い、そして頑丈な城塞・城壁をつくって断固たる自衛を行なう。オスマン帝国やヴェネツィアといった強国の狭間にありながら、この小さく美しい「アドリア海の真珠」が"自由"を守り抜けたのは、そうした理由があったのですね。なおロヴリェエナッツ要塞入口に「どんな黄金との引き換えであっても、自由を売り渡してはならない」というラテン語の碑文があるそうです、これは必見ですね。しかし、大西洋・インド洋交易におされて地中海交易が不振となったこと、1667年の大地震で壊滅的な打撃を受けたことで、緩やかな衰退の道をたどっていきます。1805年、ナポレオンによって共和国は解体されてオーストリア帝国の領地となり、第一次大戦後はセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人(ユーゴ)王国の、第二次大戦後はユーゴスラヴィア連邦の、そして1991年の独立にともないクロアチア領となります。この時に内戦が勃発し、ユーゴ連邦軍によって砲撃を受けて旧市街は甚大な被害をこうむり、「危機に晒されている世界遺産」リストにも挙げられました。しかし修復の専門家や、ワルシャワの戦後復興に関わったポーランドの専門家、そして何より多くの市民ボランティアによって町は再建され、1994年にはリストから除外されます。以上、ドブロヴニクの歴史でした。

 本日の一枚です。
クロアチア編(31):ドブロヴニクの歴史(10.8)_c0051620_6173458.jpg

by sabasaba13 | 2011-10-06 06:18 | 海外 | Comments(0)
<< クロアチア編(32):ドブロヴ... クロアチア編(30):ドブロヴ... >>