「内奏」

 「内奏 -天皇と政治の近現代」(後藤致人 中公新書2046)読了。昭和天皇における戦争責任の有無、これをきちっと分析することは歴史学に課せられた大きな課題だと思います。本書は「内奏」というあまり聞きなれない行為をもとに、その答えに一歩迫る道筋を示してくれました。それでは内奏とは何ぞや? 表紙裏の解説から引用しますと、"内奏―臣下が天皇に対し内々に報告する行為を指す。明治憲法下では、正式な裁可を求める「上奏」の前に行われた"ということです。張作霖爆殺事件(1928)を引き起した関東軍をかばった田中義一首相に、昭和天皇が不快感をもらしたため、田中内閣は総辞職しました。これを反省した昭和天皇は、上奏については必ず裁可を与えるようになったというのが定説です。しかし本書はと、上奏前の内奏の段階ではかなり踏み込んだ御下問をして、政策決定に影響力を与えていたと指摘しています。以下、引用します。
 天皇は内奏段階では御下問を行い、あたかも不同意のような印象を東條首相に与えている。すると東條は、天皇の意思を理解し、提出していた上奏書をわざわざ取り消した上で、別の人間と差し替えている。昭和天皇は上奏については極力裁可する意向であることが確認できるが、上奏前の内奏では御下問という形で意見を表明し、内奏した者はこの御下問から天皇の意思を理解し、場合によっては政治に反映しているのである。(p.120~1)
 さらにさまざまな資料から、昭和天皇は、戦後も頻繁に内奏・御下問を行っていたことがわかります。なかには政治に深く踏み込んだものもあり、日本国憲法の規定する天皇不執政が、現実の政治では貫徹されていなかったのではないかという疑念を抱かざるをえません。これに対して芦田均首相は、天皇の意思に反してでも、日本国憲法の理念に基づいた厳格な象徴天皇制を推進しようとしました。その一つが「天皇不執政の徹底のため閣僚による内奏の禁止」でした。しかし次の吉田茂首相の時に内奏は復活し、以後引き継がれていくことになります。戦争責任の問題とともに、戦後政治において、昭和天皇が天皇不執政という憲法の大原則からいかに逸脱していたか、これも重要な研究テーマですね。具体的な事例として、1947 (昭和22)年9月、昭和天皇が宮内庁御用掛寺崎英成を通じてアメリカに、沖縄の長期占領と、日本の主権の確認を求めたとされる「沖縄メッセージ」が有名ですね。著者は、内奏―御下問に関して、以下のような生々しい昭和天皇の発言を紹介されています。1947年7月22日、芦田均首相の内奏に対しする御下問です。
 日本としては結局アメリカと同調すべきでソ聯との協力は六ヶ敷いと考へるが〔中略〕、先達てBullittが来て共産党のことを攻撃して行つたが…共産党と言つても我国では徳田の如きさへ神宮では鄭重に礼儀をつくしたといふからロシアの共産党とは全く同一ではないと思はれる。(p.136)
 戦前における君主意識を払拭できず、いやそれを維持することに何の疑問も持っていない彼の姿勢が彷彿としてきます。この憲法違反の行為が現実の政治にどれくらいの影響を与えたのか、本書ではそこまで突っ込んでの分析はされていませんが、傍証や状況証拠からきわめて重大な影響を与え、しかも戦後の歴史を大きく変えた事例を分析したのが『安保条約の成立 -吉田外交と天皇外交』(豊下楢彦 岩波新書478)です。なぜ“植民地的”とでも言うべき不平等な旧安保条約が結ばれたのか。交渉を有利に進めるための外交カードを持っていながら、なぜ吉田茂首相はそれを切らなかったのか、あるいは切れなかったのか。豊下氏はずばり、吉田の外交センスとバーゲニング能力が「天皇外交」によって封じ込まれたという、大胆なしかし説得力のある仮説を打ち出します。朝鮮戦争における米軍の苦境に危機感を抱いた昭和天皇は、たとえ日本に一方的に不利であっても、独立後における米軍の駐留と安保条約の締結を急いだ。そこで内奏-御下問を通して吉田首相に強烈な圧力を加えたのではないか。私も始めて知ったのですが、サンフランシスコ講和会議に全権として出席することを吉田は固辞していたのですね。これは同時に調印される安保条約への否定的な意志表明ではないのか。結局彼は全権を引き受けますが、その背後にはやはり「拝謁」における昭和天皇からの圧力があったようです。そして筆者は推測と断ったうえで、ダレス国務長官が昭和天皇を“最後の切り札”として利用して、吉田の意思を変えさせたのではないかと分析されています。この本はとにかく面白い! 後藤氏には申し訳ありませんが、本書以上にお薦めです。
by sabasaba13 | 2011-10-11 06:14 | | Comments(0)
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