クロアチア編(39):クロアチア内戦(10.8)

 先史時代以来、バルカン半島はさまざまな人間集団の往来する土地であり、文明が交錯する土地でした。その後、ローマの東方進出によって、バルカン半島はしだいにローマの属州となります。330年にビザンティウム(コンスタンティノープル)がローマ帝国の首都となったことで、バルカン半島は食料供給地としての役割が生まれ、さらにローマ帝国の東西分裂後、1000年以上存続した東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の中心地域としてバルカン半島は重要性を増すことになります。その一方で、6世紀から8世紀にかけて南スラヴ諸族のバルカン半島への移動、定住が活発になり、バルカン半島のスラヴ化が進んでいきます。12~14世紀にはセルビア王国が成立し、隆盛を極めます。さらに14~15世紀にはボスニア王国が形成されました。一方スロヴェニア人はフランク王国に組み込まれ、13世紀以降はハプスブルク家支配下に入ります。フランク王国とビザンティン帝国の影響を受けていたクロアチア人は9世紀末に独立国家を形成しますが、1102年にハンガリーの支配下に入り、ダルマチアでは15世紀以降ヴェネツィアの影響が強まります。
 そしてオスマン帝国の登場が、この地に大きな影響を及ぼすことになりました。1354年にバルカン進出の拠点を得たオスマン帝国は、コソボの戦いでセルビアを中心とするキリスト教徒連合軍を破るなど、バルカンでのオスマン支配を決定づけ、1453年にはコンスタンティノープルを征服してビザンティン帝国を滅亡させ、15世紀末までにオスマン帝国はバルカン半島を政治的に統一することに成功します。なお、オスマン支配下のバルカン社会では、ムスリムだけでなくキリスト教徒やユダヤ教徒などの宗教共同体にも一定の自治が与えられましたが、その形態は地域、時代によっても差があり多様なものでした。しかし18世紀以降、オスマン帝国は軍事的に衰退し、その領土をめぐって対立するヨーロッパ列強、自治・独立を求めるバルカン諸勢力の間でいわゆる東方問題が展開されることになります。そして1878年ベルリン会議の結果、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアは独立、ブルガリアは公国となり、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリア・ハンガリー帝国占領下に置かれました。そしてバルカン諸国は大ギリシア主義、大セルビア主義、大ブルガリア主義、大ルーマニア主義など膨張主義的な国家目標を掲げ、近代化と軍備拡充を競い合うことになります。二次にわたるバルカン戦争の結果、アルバニアは独立、マケドニアはギリシア、セルビア、ブルガリアによって分割され、バルカン半島のオスマン領は帝都イスタンブールと東トラキアのみとなりました。こうした状況の中で、"大セルビア主義"を掲げて大国化をめざすセルビアが、セルビア人も多く居住するボスニアを併合したオーストリアへの反感を強め、これが第一次世界大戦の導火線となります。
 1914年サライエボ事件を端緒として第一次大戦が勃発するとバルカン諸国はいずれも参戦し、半島は再度戦場となってしまいます。第一次世界大戦後、セルビア王国、モンテネグロ王国、それにオーストリア・ハンガリー帝国に属していた諸地域(スロヴェニア・クロアチア)が統合され、南スラヴ人国家「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人(ユーゴ)王国」が形成されました。この国の主導権を握ったのがセルビア人で、これが他民族の不満を呼び起こすことになります。第二次世界大戦が始まると、ナチス・ドイツはベオグラードを占領し、ユーゴ王国を解体し、傀儡政権「独立国家クロアチア」を成立させます。これに協力したのがクロアチア民族主義的団体ウスタシャです。しかしナチスに対する反発も強く、チトー率いる共産党のパルチザンと、セルビア民族主義の色彩の濃いチェトニックが激しく抵抗します。やがてこのウスタシャ・パルチザン・チェトニックが三つ巴の抗争をはじめ、ユーゴの国土は引き裂かれて四分五裂の状況となります。中でもウスタシャとチェトニックの抗争は凄惨を極め、ナチス顔負けの残虐行為や虐殺を互いにくりかえすことになりました。こうした中、民族を超えた運動を展開してドイツに抵抗したチトー率いるパルチザンが民衆の共感を呼んで支持を拡大し、最終的に勝ち残ります。
 第二次大戦直後、ユーゴ連邦が成立し、パルチザンの英雄チトーが指導力とカリスマ性を発揮することになります。彼は労働者による自主管理と分権(六つの共和国と二つの自治州)と非同盟を基調とした独自の社会主義路線を推し進め、ソ連と袂を分かちました。同時に、"大セルビア主義"を封じ込め、民族の融和に腐心します。例えば比較的豊かなスロヴェニア(工業国)とクロアチア(観光収入)からユーゴ経済発展基金を吸い上げ、貧しいセルビア・ボスニア・マケドニアの援助にまわすといった政策がとられることになります。しかし共和国間の経済格差は広がる一方で、それに追い打ちをかけるように起こったイラン革命による第二次石油ショック(1979)によって経済は破綻します。1980年にはチトーが死亡して連邦の求心力は急速に失われ、1989年にベルリンの壁が崩壊して東西の緊張が緩み、戦略的重要性を失ったユーゴに対する西側諸国の有形無形の援助もなくなります。その結果、国民の不満は増大し、民族主義が復活するわけですが、その火付け役となったのがセルビアのミロシェヴィッチです。1987年にクーデター同然の手法で指導者となった彼は、セルビアの民族主義を扇動し、周囲の諸民族に恐怖心を呼び起こしました。
 クロアチアでは1990年に、熱狂的な民族主義者トゥジマンが大統領となり、人口の12%(約60万人)を占めるセルビア人を警察・マスメディアから追放し、憲法を改正してセルビア人の地位をロマなど他の少数民族並みに格下げしてしまいます。ウスタシャによるジェノサイドの生き残りの子孫であった、クライナ地方のセルビア人は、忌わしい過去を思い起こすとともにこの措置に猛反発します。彼らはクライナの自治を求めて武装し、バリケードを築いて、クロアチア警察隊と衝突し、戦いはエスカレートしていきました。クロアチア側では、こうしたセルビア・ナショナリズムの沸騰に、"大セルビア主義"の復興を嗅ぎつけ、セルビア人民兵にかつてのチェトニックの再来を見て取ることになります。1991年6月にクロアチアはスロヴェニアとともにユーゴ連邦からの独立を宣言、同年9月以降は、セルビア人が主体となったユーゴ連邦軍が、公然とセルビア人側について軍事介入を開始しました。以後、本格的な内戦が始まります。この間、クロアチア政府もセルビア政府も、マスメディア・テレビを通して、第二次大戦期のウスタシャとチェトニックの蛮行を伝え、相手への敵愾心と愛国心を煽り続けました。そして三ヵ月におよぶ激しい戦闘を経て、軍事的にはクロアチア側が敗北し、91年12月に国連の仲介によって停戦合意が成立し、国連平和維持軍が派遣されることになります。しかし「セルビア人問題」が解決しないことに苛立ったクロアチアは軍事的解決に踏み出し、1995年、アメリカの支持を取りつけてセルビア人支配地を攻撃・制圧、ここに"力"でこの問題を解決してしまいます。

 本日の三枚は、後日に訪れたザグレブの本屋のディスプレイに飾られていた写真です。
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by sabasaba13 | 2011-10-18 06:17 | 海外 | Comments(0)
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