シプリアン・カツァリス頌

c0051620_6173534.jpg 先日、浜離宮朝日ホールで、シプリアン・カツァリスのピアノ・リサイタルを、山ノ神と二人で聴いてまいりました。動機は四つ、第一に以前に某国営御用放送局で放映された彼のレッスンが印象深かったこと、第二に私が高校時代に教わった日本史の先生に髪型と雰囲気が似ていること、第三に築地市場の「磯野屋」で寿司を食べたかったこと、第四に東日本大震災・福島原発被災者の為のチャリティーコンサートであること。一番大きい動機は第四ですね、彼の「放射能汚染も地震も、怖くないので、いつでも被災者の方達を励ましに、演奏会に行く準備はできている」というメッセージに心打たれました。山ノ神は半畳を入れて曰く、「フランス人だから放射能に対する免疫があるのかしら」 うーんそれはないと思いますが、ま、それはさておき、その心意気に応えなければ。精進潔斎して当日の演奏会に臨みました。
 都営地下鉄十二号線(あの御仁が命名した"大江戸線"という名称は使わないことにしています)築地市場駅で待ち合わせ、小雨のそぼ降るなか、市場内にある「磯野屋」に入り、上にぎりを注文。店主の小気味良い手さばきから生み出される中トロ、アジ、甘エビ、イクラ、ウニ、ホタテ、鉄火巻よ、遠慮はいらないさあ僕の胃袋に飛び込んでおいで。もう舌鼓はfffで鳴り響き続けます。山ノ神はお土産に太巻きを注文。そうそう、旦那に聞きたいことがあったんだ。「豊洲への築地移転の件はどうなりました?」 彼は、かすかに諦観と瞋恚を感じさせながらも、無表情に「三年後に移転ですね」と答えてくれました。われら二人、多くの人が反対しているのに何故と訝ると、「金目当てでしょう」 虎視眈々と狙っている大企業に築地市場の跡地を提供して、巨額の利益をあげようという腹ですかね。やれやれ、東京都民はそういうお方を都知事として四選もさせたわけだ。教育や福祉の予算を削って、またぞろオリンピックの顔と顔、それととんとととんとと騒いでいるようですが、いいかげんにしてほしいものです。せっかく美味しいお寿司を食べたのに、暗澹たる気分で店を出るはめになりました。
 さてホールに入ると、ほとんど満席。そこはかとない期待感が満ち溢れています。曲目はすべてリスト、参考までに挙げておきますと、リストへのオマージュ即興、葬送前奏曲と葬送行進曲、暗い雲、ノクターン「眠られぬ夜、問いと答え」、詩的で宗教的な調べより「孤独の中の神の祝福」、ハンガリー狂詩曲第3・5・7番、二つのチャールダーシュより「チャールダーシュ・オプスティネ」(カツァリス編)。休憩をはさんで、ショパン=リスト/六つのポーランドの歌、『三つの夜想曲』より「愛の夢」、ピアノ協奏曲第2番(ソロバージョン・カツァリス編)。なんと…私の知っているのは「愛の夢」だけという体たらくです、情けない。でもこれだけリストをまとめて聴くのは初体験、楽しみです。ピアノはヤマハ、譜面台がないということは、すべて暗譜されているのですね。
 颯爽と登場したカツァリス氏、まずはリストへのオマージュを弾きはじめましたが…これがほんとうに即興演奏!? 凄い… 「アランフェス協奏曲」「アルハンブラの思い出」「眠りの森の美女」のモチーフを自由自在にアレンジしながら淀みなく流れゆく美しい音楽。ハンガリー出身のリストにちなんで、国民楽派の曲を選んだのでしょうか。そしてここからはリスト・リスト・リスト。いずれも劣らぬ難曲を、いとも楽々と、感情・表情豊かに、桁外れのダイナミクスで弾きこなすその技巧と音楽性には、文字通り、ほんとうに文字通り圧倒されました。"天衣無縫"という表現すら生ぬるく感じます。とくに最弱音の美しさと柔らかさには、息を呑みました。カルロス・クライバーの表現を借りれば、女性の産毛に触れた瞬間のような、身も心もとろけてしまう音です。あっという間に一時間が過ぎ、休憩。興奮さめやらぬなか、プログラムは後半へ。「愛の夢」で心和むと、怒涛のフィナーレ、カツァリス自身がピアノのために編曲したピアノ協奏曲第2番です。ピアノでこんな音が出せるのか、ピアノでこんなフレーズが弾けるのか、ピアノでこんなニュアンスが表現できるのか、と驚きの連続。鬼神の如く天馬の如く奔流の如く一気に弾き終えると、腰が抜けたような様子で山ノ神が「爆裂…」と呟きました。
 万雷の拍手を受けて、アンコール。譜面を手にステージに現れた氏は、Carlo Balzarettiから二日前に送られてきた「2011年3月11日」という曲だと英語で語り、「犠牲者(victim)のために」と呟くと、静謐な哀悼の曲を奏でました。ふたたび大きな拍手、そして次のアンコールはショパンの葬送行進曲。深い悲しみと万感の思いを込めた、見事な演奏でした。技巧のための技巧ではなく、より全き表現の為の技巧であることがよくわかります。最後の響きが溶け去った後も、十数秒ほど微動だにしません…まるで黙祷のように。そして静かに立ち上がると合掌をして、袖へと去っていきました。ステージの明かりが落ち、演奏会は終了。この間、私たち聴衆も、拍手もせず、彼の思いを共有して黙祷を捧げました。ちょっと意外だったのが、彼が合掌をした時に、何人かの小さな笑いが起ったことです。たぶん、受けをねらったパフォーマンスととらえたのでしょうか。カツァリス氏は、関係者から「日本における死者を悼む仕草」を教えてもらい、それを行ったのだと思います。合掌を「死者を悼む仕草」と認識できない方がおられたのですね。責める気はありませんが、今の私たちに、心の底から死者を哀悼するための、みんなが共有できる仕草があるのかと考えると、ちょっと心許ない気になります。
 素晴らしい二時間でした。また彼の演奏を聴きに、できればここ浜離宮朝日ホールに足を運びたいと思います。

 追記その一。山ノ神が、お土産として巻いてもらった太巻きを帰宅後すぐに食しましたが、その美味なること、感服仕りました。今日は、ピアノと太巻きについての、これまで持っていた既成観念が木っ端微塵に粉砕された希有なる日です。
 追記その二。築地移転問題について、インターネットで調べてみたところ、植草一秀氏のブログに下記のような記述がありました。
 また、築地から豊洲への移転に伴い、流通の構造が激変することが予想されている。多数の中小仲卸が淘汰されて、少数の大手卸業者が新たな流通構造を支配することが見込まれている。築地市場で活動する大手上場卸企業の大株主に米国大手金融資本のゴールドマン・サックスが登場しており、結局、築地市場の豊洲への移転は、これまでの水産物流通を外国資本に支配させるための方策との側面も見え隠れしている。
 真偽のほどについて判断する能力はないのですが、いちおう参考までに。
by sabasaba13 | 2011-10-24 06:18 | 音楽 | Comments(0)
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