「エラスムスの勝利と悲劇」(シュテファン・ツヴァイク 内垣啓一訳 みすず書房)読了。去年の冬、スイスのグリンデルワルトへスキー旅行をした際、バーゼルに立ち寄り、大聖堂で
エラスムスの墓銘碑を見てまいりました。渡辺一夫氏のエッセイを通して彼の業績はそれなりに知ってはいたつもりですが、お恥ずかしい話、その著作を読んだことがありません。前もって『痴愚神礼讃』と『平和の訴え』(ともに岩波文庫)を読んでおくべきだったなあと悔やんでも後の祭り。これは帰郷してからの宿題としました。その課題を果たす前に、ツヴァイクの『エラスムスの勝利と悲劇』(みすず書房)を読んだのですがこれが滅法面白い。『人類の星の時間』『権力とたたかう良心』とならぶ傑作ですね。まずはスーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
Desiderius Erasmus(1466―1536) オランダの人文学者。ロッテルダムに司祭の私生児として生まれる。…1488年にステインのアウグスティヌス派の修道院に入ったが、晩年には教皇に請願して僧籍を脱した。カンブレの司教の秘書を務め、その援助で95年パリに遊学、もっぱら古典ラテン文芸の研究に没頭した。自活をするためにイギリス貴族の子弟の個人教授をし、99年教え子といっしょにイギリスに渡り、トマス・モアやジョン・コレットらの人文学者と知り合った。…1506年にはイタリアからイギリスへ旅行中に着想して、ロンドンのトマス・モアのところで一気に書き上げたのが有名な戯文『愚神礼賛』(1511)である。それは「愚かさの女神」が世にいかに愚かなことが多いかを数え上げ、自慢話をするという形式をとり、哲学者・神学者の空虚な論議、聖職者の偽善などに対する鋭い風刺が語られている。
1516年、キリスト教君主たちの間でキリスト教的平和の締結されることを切望した『キリスト教君主の教育』を公刊。またギリシア語『新約聖書』の最初の印刷校訂本を上梓したり、『ヒエロニムス著作集』(ともに1516)を公刊するなど、多彩な活動をなし、「人文学者の王」と仰がれるに至った。晩年は帰国後スイスのバーゼルに住み、そこで死去した。彼は教会の堕落を厳しく批判し、聖書の福音の精神への復帰を説いたので、その弟子からは多くの宗教改革者を出した。彼自身もルターの宗教改革に初めは同情的であったが、その熱狂的な行動には同調できず、『自由意志論』(1524)を書いて論争してからはルターと決定的に分裂した。ディルタイによって「16世紀のボルテール」とよばれたように、コスモポリティックな精神の持ち主で、近代自由主義の先駆者であるばかりでなく、ラブレーをはじめフランス文芸思潮に大きな影響を及ぼした。
「人文学者の王」と敬慕されたゆえ、エラスムスは宗教改革の荒波に巻き込まれてしまいます。教皇派もルター派もともにエラスムスを味方につけようとしますが、寛容・理性・和解・協調・自由・独立を尊重する彼はいずれの党派にも与せず、彼の永遠の節度である公正だけに仕えようとします。"むだとは知りながら、彼は汎人間的なもの、共通の文化財をこの不和から救うために、仲介者としてその中間に、したがって最も危険な場所に身を置くのである。彼は素手で火と水を混ぜ、一方の狂信者たちを他方の狂信者たちと宥和させようと試みる" (p.18) ただ一人、個々の派閥よりも人類全体に忠実であり続けた彼は、両派から攻め立てられ、孤独に一人きりで死んでしまいます。しかしこの小さな微かに燃える燈心は、ラブレー、モンテーニュ、スピノザ、レッシング、ヴォルテール、さらにカント、トルストイ、
ガンディー、ロマン・ロランへと受け継がれていくことになります。華奢な鵞ペンに守られただけの、あくまでも協調和解を旨とする知性の人エラスムス。彼が掲げた炬火が、今だからこそ一人でも多くの人間の手に渡りますように願わずはいられません。