クロアチア編(45):モスタル(10.8)

 車窓からときどきモスクを見かけるようになったので、ボスニアにやってきたのだなあと実感。葡萄畑もたくさんありましたが、ワインの生産もさかんなのでしょう。
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 ん? 黒いプレートに顔写真と十字架が刻まれた小さな石碑が視界を横切りました。あっまたあった。もしかすると内戦による犠牲者の碑かもしれません。
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 やがて岩肌をあらわにした峻険な山々が迫ってくると、モスタルの新市街に到着です。ドブロヴニクから約140km、約三時間半かかりました。
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 現地ガイドと落ち合い、彼女に誘導されて駐車場から世界遺産のモスタル旧市街まで徒歩で十分ほど移動します。実はその間、茫然として何回も立ち竦んでしまいました。壁一面に穿たれた弾痕、破壊された建物、内戦の傷跡がいたるところに残っています。その凄まじさには絶句するしかありません。なぜこのような凄惨な内戦が起きたのか。
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 それでは『ユーゴスラヴィア現代史』(柴宣弘 岩波新書445)、『「民族浄化」を裁く』(多谷千香子 岩波新書973)、スーパーニッポニカ(小学館)、ウィキペディアを参考にしながらボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争についてふれたいと思います。
 第二次世界大戦後のユーゴスラヴィアの状況については、クロアチアのところでまとめたのでそちらをご参照ください。1991年6月、クロアチアの独立宣言をきっかけにクロアチア紛争が勃発しましたが、それを契機にボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立を求めるムスリム人・クロアチア人と、独立に反対するセルビア人との間で対立が深まりました。このクロアチア紛争にユーゴ連邦軍が介入したやり方は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのムスリム人から見れば、クロアチアの少数民族のセルビア人を支援し、クロアチアの当然の権利である民族自決権を否定し独立を阻止するもので、"大セルビア主義"を地で行くものに映りました。他方、ボスニアのセルビア人は、クロアチアの少数民族であるセルビア人の無残な姿に、ボスニアが独立に動き出した場合の自らの姿を重ね合わせます。こうして、クロアチア紛争の勃発は、ボスニア紛争を胎動させることになったのですね。そのような状況の中、セルビア人の反発を無視し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ政府は1992年3月に独立を宣言、4月にはECが独立を承認しました。独立に不満を抱いていたセルビア人は、ECの独立承認をきっかけに大規模な軍事行動を開始し、ボスニア北部を中心に「スルプスカ共和国」の独立を宣言します。紛争の開始直後は、その数と装備の質において、ユーゴ政府の支援を受けるセルビア人勢力が優勢でした。そのため、セルビア人勢力は、最初の攻勢でボスニア・ヘルツェゴヴィナ全土の6割以上を制圧、サラエヴォを包囲します。クロアチア人勢力は、ヘルツェゴヴィナ西部の確保に専念、ムスリム人勢力は残るサラエヴォ、スレブレニツァ、ゴラジュデ、ジェパなど主要都市を含む3割弱を必死に防衛するという状況になります。国際社会は、セルビア人勢力を支援するユーゴへの制裁、サラエヴォへの人道支援などを行いますが、戦局の大勢を動かすまでには至らず、92年中はその状況が続きます。1993年春、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力の間での対立が深まり、クロアチア人勢力は同年8月にヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の樹立を宣言。セルビア人勢力と争う地域が少なくなっていたこともあり、クロアチア人勢力はセルビア人勢力と同盟を結びます。モスタルなどでは、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力の間で激しい戦闘が開始され、これにより、ムスリム人勢力は一層の苦境に立たされました。94年に入ると、アメリカの圧力によりクロアチア人勢力が再びムスリム人勢力と同盟を結ぶことになります。この頃から大西洋条約機構(NATO)によるセルビア人勢力への空爆が実施され、秋ごろからは、アメリカによるムスリム人・クロアチア人勢力に対する軍事援助も開始されました。
 前述のようにボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人の三者が、住み分けができないほど混住し、長い歴史の過程で共存する知恵を生みだしてきました。しかし内戦の激化とともに、互いへの憎悪と敵愾心が爆発し凄惨な殺戮がくりかえされ、またそれぞれの民族集団の武装化が迅速に進みます。前者については、相互に類似しているがゆえの潜在的な近親憎悪の感情、第二次大戦期の「兄弟殺し」の忌まわしい記憶、民族主義に基礎を置く各勢力指導者の政治戦略とこれに追随するマスメディアのプロパガンダ、経済的不満から極右民族主義勢力のもとに結集した青年層の存在、混住地域という特殊な条件を充分に考慮することなく、民族自決や人権や「正義」を一義的に適用してユーゴの問題に介入したECやアメリカの対応のまずさといった点が指摘されています。後者については、ソ連の軍事侵攻に対する全人民防衛体制が敷かれ、有事に備えて通常兵器が各共和国や自治州に備えられていたためです。そしてこの三者がそれぞれの領域の拡大に奔走しますが、この三勢力による領土拡大のための戦闘がボスニア内戦の本質と考えていいでしょう。その際に、他民族を排除して民族の住み分けを実現するための手段を講じますが、これが「民族浄化」と称される政策ですね。この結果、ボスニア・ヘルツェゴヴィナだけで被災者・難民の数は総人口の約半数、250万人に達することになりました。
 そして95年、アメリカの主導により、ボスニア、クロアチア、新ユーゴスラヴィアの紛争3当事国の外相会議が主催され、デイトン和平合意が調印されました。この結果、20万人近い死者と250万人を超える難民、避難民を出したボスニア内戦は一応終息しました。しかし、事実上、3勢力の領域は分割されており、和平合意にもられた「単一国家」をいかにつくり上げ、経済再建を遂げるのか、難民の帰還問題をどのように解決するのかなど、課題が山積しています。

 ここで、ドブロヴニクで考えた二つの問いがまた脳裡をよぎります。戦後五十年もの間、旧ユーゴの人々は民族の違いを超えて、日常的には民族を意識しないで平和共存してきたのに、なぜ急に、互いに牙をむき出して血で血を洗う民族紛争を戦うにいたったのか。そして、民族紛争という宿痾をなくすにはどうすればよいのか。もうしばらく考えさせてください。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-10-28 06:19 | 海外 | Comments(0)
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