隠岐編(6):美保関灯台(10.9)

 そしてタクシーに乗り込み、美保関灯台へと向かいます。数分で駐車場に到着、ここから歩いてすぐのところに美保関灯台がありました。1898年(明治31年)にフランス人の指導により建てられた山陰最古の石造灯台で、「世界の歴史的灯台百選」や「日本の灯台50選」に選ばれ、灯台として初の登録有形文化財に登録されたそうです。金網で囲まれ接近できないのが残念ですが、風雨に耐えながら寡黙に屹立するその剛毅な佇まいがいいですね。隣に同じく石造の官舎が残っているのも貴重です。
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 周囲には遊歩道が整備されているので、歩いてみることにしました。潮風を浴びながら日本海を眺めていると、「日本海軍美保関遭難事件」という碑がありましたが、これは初耳。ウィキペディアから事件の概略について引用します。「美保関事件とは、1927年(昭和2年)8月24日に大日本帝国海軍で夜間演習中に起こった艦船の多重衝突事故である。日本海軍はワシントン海軍軍縮条約の結果として保有主力艦艇の総排水量を制限された。それに対抗して、連合艦隊司令長官加藤寛治は「訓練に制限無し」の掛け声の下、1926年(大正15年)11月以来、将兵に連日激しい訓練を強いており、小規模な事故が相次いでいた。その結果、翌1927年(昭和2年)8月24日、徹夜の夜襲訓練中に島根県地蔵崎灯台の東4浬にて軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨」、巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦」の多重衝突事故が発生した」 碑の解説文によると、犠牲者は119名、「海の八甲田事件」とも言うべきこの惨事を日本海軍は黙秘しつづけ、半世紀を経て(!)、故五十嵐艦長の御子息の克明な調査によって明らかにされたそうです。加藤寛治といえば、ロンドン海軍軍縮条約に強硬に反対し、統帥権干犯問題のきっかけつくった軍令部長でしたね。やれやれ、責任回避のために都合の悪いことを只管隠蔽する官僚的体質を如実にあらわす事件です。そして戦争に勝つためなら、兵の命など寸毫もかえりみないこのおぞましき組織体質には言葉もありません。戦争に「経済」をくっつけて、「兵」を「社員」と言い換えれば、いまでもあまり変わっていないということに慄然とします。それにしてもなぜこの国の組織は、人の命を羽毛のように軽く扱うのでしょうか。あらためて犠牲となった方々に合掌。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-11-30 06:15 | 山陰 | Comments(0)
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