「石子順造的世界」

c0051620_714677.jpg 通勤のため、某私鉄の某駅を利用しておりますが、展覧会のポスターが何枚も並べて貼ってあり重宝しております。でも「ゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤ」にはさすがにぶっ魂消ましたが。
 そんなある日、新しく貼ってあった巨大なポスターを見て息が止まりました。つげ義春の「ねじ式」だ… リアルタイムでは読みませんでしたが、たしか小学館の漫画文庫で読み、そのシュール・レアリスティックな表現に驚愕した記憶があります。しかしなぜまたこの漫画がポスターに? 近づいて解説を見ると、石子順造という美術評論家に関する展覧会でした。ホームページで調べていると、開催されるのは府中市美術館。1960年代から1970年代にかけて活躍した、"いわゆる「美術」を超えてマンガや演劇、芸能、果ては誰も気にとめない「ガラクタ」の類いにまで論の対象を広げた評論家"だそうです。美術評論家を美術館が取り上げるのは異例ですね。先日、「1968年」(小熊英二 新曜社)を読み終えてこの時代に興味がわいたし、「ねじ式」の原画がすべて展示されるというし、府中の森公園の紅葉も見られるし、さっそく行ってみることにしました。
 12月好日、京王線東府中駅で下車し十分ほど歩くと府中の森公園に到着です。酷暑のためか、紅葉はかんばしくありません。ほとんどのカエデは葉が焼けて丸まったり、色づかずに落ちたりしていました。二年前に来た時は綺麗だったのですが。でも武蔵野の面影を残す雑木林はいい風情ですね。散り落ち葉を踏みしめてしばし散策を楽しみました。そして公園内にある府中市美術館に到着。係りの方から、入口と第三展示室は撮影可能だということなので、デジタル・カメラを持ち込みました。まるで新規開店したパチンコ屋に飾られるような安っぽい花輪が、入口の両側でお出迎え。さっそく写真撮影。第一展示室は、石子が論じた作家たちを紹介し、また彼が企画に関わった「トリックス・アンド・ヴィジョン展」(1968)を最新の調査をもとに一部再現してあります。うーん、智に働いた作品がほとんどで、がつんと迫ってくる衝撃は関しません。ただ、これまでの「美術」ではいけない、新しい美術を創造しなければ、という強い思いは伝わってきました。というわけでこちらは早々に退散。そして第二展示室はマンガに関する展示です。石子曰く「マンガを表現としてアクチュアルに成立せしめているのは、あくまで価値的な芸術としての評価などとは無縁な、生活実感そのものであるだろう」(カタログp.85) なんといってもお目当ては「ねじ式」の原画。照明を落とした薄暗い部屋に、一話分すべての原画が展示してありました。間近でじっくりと見ると、作者の息遣いが聞こえてくるようです。意外と繊細な筆触が多用されているのもよくわかります。そして白昼夢のような数々の光景、現実離れした登場人物、あらためてその魅力を再確認できました。それにしても作者はいったい何を言わんとしていたのだろう? 林静一や横尾忠則の絵もお見逃しなく。
 第三展示室は「キッチュ 匿名表現のかなたへ」。キッチュとは「まがいもの」「通俗物」などと訳されますが、石子は「近代」が切り落としてきた民衆の表現ととらえていたようです。石子曰く「ぼくはキッチュといわれる諸現象の底に隠されているはずの、民衆の生活様式を発見したい。きっと、それはある。ないなら、歴史は、民衆にとってついに季節の交代でしかないだろうから」(カタログp.185) マッチ箱、絵葉書、旅行土産のペナント、造花、銭湯の背景画、安っぽくけばけばしいけれども人目を引き意表をつく雑多なコレクションが目白押し。「美術」界の人々が歯牙にも懸けないこうしたモノたちに、石子は閉塞状況からの突破口を見出そうとしたのかもしれません。それにしても何と饒舌なモノたちよ、部屋中に彼ら/彼女らの「わたしを見て見て見て見て見て」という囁きが羽音のように満ち溢れています。なおこの部屋のみ、写真撮影が可能です。
 さて、1960~70年代の(マンガを含めた「美術」の動向を語るときには、どうしても時代状況の分析が欠かせません。そう、全共闘、学園紛争、連合赤軍、"若者の叛乱"の時代です。前述の「1968年」(小熊英二 新曜社)のなかに、下記のような指摘があります。
 …「あの時代」の若者たちの叛乱は、きわめて単純化して表現すれば、高度成長にたいする集団摩擦現象であり表現行為であった。若者たちは、あたかも炭鉱のカナリアのごとく、大人たちより敏感に高度成長の毒性を感じとり、鋭く鳴き叫んだともいえる。(下p.823)

 すなわち「あの時代」の叛乱は、高度成長にたいする集団摩擦反応であったと同時に、こうもいえるであろう。それは、日本が発展途上国から先進国に、「近代」から「現代」に脱皮する過程において必要とした通過儀礼であり、高度資本主義社会への適応過程であったのだ、と。(下p.838)
 さすがは小熊氏、鋭い分析です。だとすると、前衛美術も、マンガも、この高度成長の毒性にたいする摩擦反応や叫びであったのではないか。つげ義春の「ねじ式」における斬新な表現もそう考えると納得できます。作品に描かれた蒸気機関車や漁村は、「現代」に押しつぶされようとしている「近代」を象徴しているから、どことなく歪んだ表現になっているのではないか。素人考えですが、そうした視点から、この時代の「美術」シーンを分析してみるのも面白いかもしれません。
 なお蛇足ですが、小熊氏は最後に次のように述べられています。"「あの時代」の叛乱を、懐古的英雄譚として描くなら現代的意義はない。現代の私たちが直面している現代的不幸に、最初に集団的に直面した若者たちの叛乱とその失敗から、学ぶべきことを学ぶこと。そして、彼らの叛乱が現代にまで遺した影響を把握し、現代の私たちの位置を照射すること。(下p.982)" 気になるのは、最近、あの時代に流行したマンガの、リメイク・実写版が雨後の筍のように制作されていることです。「妖怪人間ベム」「怪物くん」「ワイルド7」等々。もはやあの時代は懐古の対象でもなく、反省の材料でもなく、金儲けのために利用する素材に満ちた時代ととらえられているのかもしれません。同時代の最後のあたりに青春を送った私としては、ちょっと薄気味悪い話ですけでね。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-12-23 07:16 | 美術 | Comments(0)
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