隠岐編(21):黒木御所(10.9)

 十分ほどで別府港の東、湾に突き出た丘のふもとに到着。運転手さんに丁重にお礼を言い、車から降りるとそこが元弘の変によって隠岐に配流された後醍醐天皇が約一年間住んだと言われる伝承の地、黒木御所です。なお既述のように、島後にも後醍醐天皇行在所跡(国分寺跡)があり、どちらが本物かは決着がついていないようです。まあ肉じゃがの本家をめぐる舞鶴の争いみたいなものですか。「建武中興発祥之地」という石碑と忠魂碑の脇にある石段をのぼり鬱蒼とした木立の奥へ分け入ると、「黒木御所遺址」という碑がありました。その両脇には皇太子・皇太子妃が植樹した記念樹。やはり南朝が正統な皇統であるという認識に立っているのでしょうか、今の皇室は北朝の末裔なのにね。
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 結局、南朝の血統は二度と皇位につけなかったのですから、"南北朝合体"という物言いはやめたほうがいいと思います。さてこの後醍醐天皇、さまざまな毀誉褒貶がありますが、マルク・ブロックの言を借りれば、「ロベスピエールをたたえる人も、にくむ人も、後生だからお願いだ。ロベスピエールとはなにものであったのか、それだけを言ってくれたまえ」 そう、彼が何をしたのか、何をしようとしたのか、何をしなかったのか、そして何者なのか、それが知りたいのです。幸い、気鋭の中世史家本郷和人氏による「天皇はなぜ生き残ったか」(新潮新書312)という好著がありますので、紹介させていただきたいと思います。氏によると、武士勢力との連携を拒否する後醍醐天皇の頑なな姿勢が、天皇親政を画餅へとみちびいたということです。現実の問題としてそれは不可能であったし、股肱とすべき有能な廷臣たちも保身を考えて天皇とは距離を取り、彼は孤立することになります。鎌倉幕府の打倒に成功したのは、あくまでも幕府自身の自壊によるもので、後醍醐はそのきっかけをつくったにすぎない。また三千ほどの兵力しか保てなかった山中の南朝政権が六十年にわたって生きながらえたのは、北朝の存在を警戒した室町政権がそれを相対化するために保存しておいたため、つまり室町幕府の都合によるものである。世に流布するイメージや先入観にまどわされず、史実に立脚した緻密な考察と、大胆な仮説を打ち出す勇気、無理を承知で見習いたいと思います。
 なおこちらには後醍醐天皇を祀る黒木神社が併設されていますが、その狛犬の顔面がやはり抉り取られていました。碧風館という資料館もありましたが、時間もないので見学はスキップ、そろそろ別府港へと戻りましょう。
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 ここから港まで歩いて数分ですが、途中に「廃車・廃船引き取ります」という看板がありました。島にいるのだなあ、としみじみと実感。西ノ島ふるさと館には、「離島で初、全国で47点目! 「和同開珎銀銭」出土」という看板がありました。
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 そして「山本幡男遺品展」という大きな看板、ああさっきの方だ。少々時間もあるし、後学のために拝見していきますか。
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 二階には西ノ島でつかわれていた漁具が展示されており、一室が彼に関する展示室となっています。あまり時間もないので、彼の履歴や俘虜郵便をざっと見ていると、やはり瀬島龍三の名が出てきました。収容所内での日本語壁新聞づくりを担当する文化部長に山本幡男を推薦したのが彼だったそうです。
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by sabasaba13 | 2011-12-30 14:18 | 山陰 | Comments(0)
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