「イギリス近代史講義」

 「イギリス近代史講義」(川北稔 講談社現代新書2070)読了。碩学・川北氏による、一般読者向けの読みやすく分かりやすく面白いイギリス近代史講義です。まずはその志について。氏は、最近の歴史の小「ブーム」は視野狭窄的かつ興味本位なもので、日本人の歴史的思考の劣化を象徴する出来事のように思われると述べられています。そして近年の歴史学は、いっそう「ひきこもり」の傾向が強く、社会に訴える力が弱まっているとも。現実と向き合い、社会の現状を課題に組み入れた歴史学を構築するにはどうすればよいのか。以下、引用します。
 では、どういう歴史学が現実と向き合えるのか。ひとつは、普通の人間の生活感覚に根ざした問題に取り組まないといけないということです。さらに言えば、その評価はひとまずおくとして、グローバリゼーションにどう対応するかという問題を考えるために、人びとの生活の具体的なあり方と、世界的なつながりの二つをうまく組み合わせていかないと、現在の人間にとって面白い歴史にはならないように思います。
 さらに、資源・環境問題も深刻になっていますが、これはグローバリゼーションと深い関係があります。世界は一体になり、もうこれ以上は拡大しえないというところにきています。そのことが資源問題、環境問題を深刻にしているのです。近代世界が急速に広がってきたというのは、一種の経済成長、あるいは開発、進歩というものを達成してきたからなのですが、近年行き詰まりを見せていることは明白です。
 そういうことをすべて包括して考えると、結局、「地球は一体である」ということの結果として、資源・環境問題があり、この根本には、進歩とは何なのか、経済成長とは何なのか、という問題があると思うのです。(p.10)
 "人びとの生活の具体的なあり方と、世界的なつながり""進歩とは、そして経済成長とは何なのか"、気宇壮大な問いかけですね。しかし氏は、大所高所ではなく、あくまでも史実に基づき、普通の人々の目線からその問いに答えようとされます。例えば、近世から近代にいたるイギリス経済の発展を、イギリス人がいかにがんばって働いて、どういうものを生産したか、というように議論するよりも、そういったモノが、なぜつくられたのか、なぜ売れたのか、人びとはなぜそういったものを消費したのか、というように見てみたいと述べられています。詳細についてはぜひ本書を読んでいただきたいのですが、少しだけ紹介しますと、17世紀にイギリスにおいて都市化が進むとともに、綿織物や茶といった魅力的な消費物資が普及します。都市の特徴は「匿名性」、つまり良いものを着たり飲食したりすると、上流階級に見てもらえるのですね。そしてここから「欲しいものがたくさんあり、それを消費していると、ステイタスも上がり、労働意欲も高まっていく」という過程が始まりますが、氏はこれこそが近代化であると唱えられています。身も蓋も無い言い方をすれば、「きれいな服を着て、女の子に好かれたい、そのためには働かなくてはならない」ということですね。周知のようにマックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で主張した、宗教上の強迫観念とは違った誘因ですね。そしてこうした「みんなが、つねにそれまでより、よい生活をしなければならない」という考え方、経済成長こそが至上命題となっている心性を、著者は「成長パラノイア」と表現し、近代世界システムの基本理念であるとされています。今、世界や日本が抱えているさまざまなアポリア、環境破壊・資源の枯渇・格差社会と貧困の蔓延・テロリズム・民族紛争・戦争もつきつめるとその原因はここにあると私は思いますが、それではこのパラノイアからどうすれば脱却できるのか。川北氏は下記のようなヒントを提出されています。
 少し考えてみると、たとえば十六世紀のヴェネツィアは非常に繁栄していたけれども、十七世紀には衰退した。ヴェネツィア経済の衰退を扱った本もありますが、衰退してどうなったのか、十七世紀のヴェネツィア人は十六世紀のヴェネツィア人より不幸であったのか。そこのところまでは議論がなされていません。
 近世の初頭にスペインやポルトガルは対外発展をしますが、やがてフランス・オランダ・イギリスに抜かれていく、と一般に考えられています。しかし、抜かれてしまったスペインやポルトガルの人びとは不幸になったかというと、不幸にはなっていないし、昔の中世の状態に戻ったかというと、それもないわけです。
 だからわれわれにとって問題なのは、成長パラノイアということであって、俗に衰退と言われているものはそれほど悲惨なことではない、というのが長年歴史研究に携わってきた私の結論のひとつです。(p.250)
 他にもたいへん勉強になる斬新な指摘がてんこ盛り。例えば、これは私もつねづね疑問に思っていたのですが、なぜ、AD(Anno Domini)はラテン語で、BC(Before Christ)は英語なのでしょうか。中世において歴史のようなものを書く人のほとんどは修道院の修道士で、彼らは当然ラテン語で書きます。そして修道士は、キリスト生誕以後の話しか書きません。キリスト生誕以前の話は、すでに聖書に書かれているからです。聖書とちがうことは書けませんから、聖書以前のことは書けません。だから彼らにとっては、キリスト以後、ADだけで歴史がかたづいていたのですね。しかしキリスト以前のことがタブー視されなくなり、歴史の研究が進むと、当然キリスト生誕以前の歴史をさししめす指標が必要となるわけですね。「BCは暦学の大発明で、歴史哲学上これより大きな革命はない」と言う学者もおられるそうです。
 またイギリスは、巨大な分業体制である近代世界システムの中核に位置したから有力な国になっていったということであれば、政治的支配をともなう帝国植民地などはいらなかったということになります。それにもかかわらず、イギリスは帝国を維持し、拡大していきますが、それにはどういう意味があったのか。氏は、イギリス本国では、社会的上昇の野心を満たせない人間や、逆にイギリス本国では食べていけない人間が、帝国の植民地に解決策を見出すことが可能であったと分析されています。社会福祉や、刑罰の対象になったりする人は、どのような社会でもかならず出てきますが、近世以降のイギリスの場合は、圧倒的に帝国植民地を利用して、そうした問題が処理されていったそうです。なるほど、これも日本の近代史を見る上で欠かせない視点のように思えます。
 というわけで、イギリスが数百年にわたって経験した歴史をぐわっしと鷲掴みにした好著。こうした面白く役に立つ歴史書がもっともっと書かれることを衷心から望みます。川北氏の最後の言に満腔の意を込めて賛同いたします。
 この本が、歴史を単語の暗記などではなく、大づかみにとらえる見方の一例となれば幸いです。(p.264)

by sabasaba13 | 2012-01-12 06:16 | | Comments(0)
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