隠岐編(37):若桜(10.9)

 さて郡家行きの列車は15:16発、それまで四十分ほどあるので、観光案内所でもらった地図を頼りに若桜宿を散策することにしました。なお自転車も借りられますが、小さな町なので徒歩でなめるように徘徊した方が楽しいかと思います。まずは商店街と並行する裏路地へ、ここは蔵通りと呼ばれ、黒板・白壁の蔵が建ち並び往時の繁栄を偲ばせてくれます。中には鏝絵がしつらえてある電灯飾りもありました。
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 マンホールの蓋には、山川、魚、桜、雪の結晶が意匠されており、この地の風物を物語っています。澄円庵には「芭蕉翁の碑」があり、何でも化政時代の文芸復興期にある俳諧師が芭蕉の俳諧を広めるための全国行脚の途中でここ若桜に立ち寄った際の記念碑だそうです。
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 「胃腸と栄養に 膽腸 ワット本舗」というホーロー看板を見かけましたが、何と読むのでしょう。"たんちょう"かな。おっこちらの蔵にしつらえてある鏝絵は素晴らしい、沸き立つ雲と竜ですね。
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 「ニュージャパンタイヤー」というホーロー看板を撮影してすこし歩くと八東川、そこにかかるが若桜橋です。竣工は1934(昭和9)年、鉄筋コンクリート造の三連アーチ橋で、なかなかモダンな橋梁です。事前に調べたところによると、時局匡救事業の一環として、約13,000人を動員して建設されたそうです。ちなみに時局匡救事業とは、世界恐慌への対策として1932(昭和7)年から1934(昭和9)年にかけて実施された公共事業です。
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 それでは駅へと戻りましょう。新町公民館の前には"従是みきハはりまみち ひたりハいせみち"と刻まれた「伊勢の道しるべ」が残されています。江戸時代の伊勢信仰を物語る物件ですね。町役場に横には、1,550人の人夫を動員してつくったという巨大な忠魂碑があります。なおパンフレットには1920(大正9)年、解説板には1924(大正13)年と、完成時期が食い違って説明されていますが、どちらが正しいのでしょうか。前者だとしたら、第一次世界大戦に従軍して戦死した兵士がこの地にいらしたのでしょうか。
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 そしてカリヤ(仮屋)通りに到着。通りに面して各家々に庇が設けられ、雨や雪の日の往来に便利なようになっています。ところどころに残っているだけで統一感にかけるのがちょっと残念。なおパンフレットによると、この通りにある用水と流雪用の水路では、鯉が飼育されていたとのことです。さきほどマンホールの蓋に描かれていた魚は鯉だったのですね。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2012-01-20 06:21 | 山陰 | Comments(0)
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