荻窪編(2):荻窪(10.11)

 そして二つの池の間にある車道に戻り、荻窪行きのバスに乗り込みました。荻窪が近づいてきた頃、ふと何気なく車窓を流れゆく建物を眺めていると、視界をよぎったのが二階にある見事な銅製の戸袋です。次のバス停で飛び降り、当該の物件にいそいそと近づくと…粋だねえ。てやんでえべらぼうめ、と思わず江戸ことばになってしまいました。煉瓦型に貼り合わせた銅板のど真ん中に三つの麻の葉が見事におさめられています。うーん、匠の技ですね。荻窪駅の方へすこし歩いてくと、今度は網代の戸袋を発見。またファサードを銅板で覆ったお宅も二軒ありました。もしかしたら荻窪近辺は、知る人ぞ知る、知らない人は知らない、興味のない人はどうでもいい、銅板戸袋のサンクチュアリかもしれません。後述の「夢声戦争日記」によると、荻窪はアメリカ軍による無差別爆撃を受けていないので、こうした貴重な物件が残ったのでしょう。なお場所をお知らせしておくと、四面道の先、桃井一丁目の青梅街道に面したあたりです。
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 近くにあった喫茶店でモーニングサービスをいただき、すこし歩くと荻窪駅に到着。
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 前記のブログによると、荻窪勧業ビルのあたりに徳川夢声が住んでいたそうですが…あった。昔日の俤を偲ばせる縁はなにもない、普通の駅前でした。
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 岩波日本史辞典から引用しましょう。
徳川夢声(1894‐1971)、活動弁士(映画説明者)・俳優。本名福原駿雄。島根県生れ。1913年活動弁士となり、新宿武蔵野館における巧みな話術が人気となる。33年古川緑波(ロッパ)らと笑の王国を結成,文学座にも出演。39年から始めたNHKラジオ「宮本武蔵」の朗読が評判となり、46年以降はNHKの「話の泉」「こんにゃく問答」等で活躍。「週刊朝日」の対談「問答有用」ではインタビューの妙味を発揮。著「夢声戦争日記」ほか。
 実は、厠上本(便所で読む本)として「夢声戦争日記(1)~(7)」(中公文庫)を読んでいるのですが、このあたりについてしばしば触れられています。時には熱狂的に戦争を支持し、時には懐疑的・冷笑的となり、時にはやけくそとなり、人間的にあまりにも人間的に酒と食べ物にこだわりつづけた夢声、なかなか面白い日記です。例えば、1944(昭和19)年12月9日記を紐解いてみましょう。
 この数日来めっきり悪くなった歯で、ポロポロの握り飯をムニャつきつつ、しみじみ味気なくなる。あれを想いこれを想いしているうち、―戦争はイヤだなァ、と心の中で言う。馬鹿! 貴様は日本人か! と自分を叱る。
敗戦は無論イヤである。然し、戦争も別にヨクはない。

 人間の思想斯の如し、平静なる時、興奮せる時、悄然たる時、同じ人間が同じ日の中に、幾度か変転する。一椀の飯、一杯の酒、寒暖五度の差よく思想を左右する。
 空襲で家も焼かれず、近親に戦争による死者も出ず、ある程度の収入もあり、コネで酒食も手に入れられた夢声を、民衆の全き代弁者とすることはできないと思いますが、その目線は市井の人に近いものがあります。その彼がここで泣き笑い怒り溜息をついていたかと思うとちょっと感無量ですね。なお荻窪には井伏鱒二、太宰治、与謝野晶子、棟方志功、田河水泡、長谷川町子といった方々も住んでおられました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2012-03-27 21:05 | 東京 | Comments(0)
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