荻窪編(7):荻外荘(10.11)

 それでは近衛文麿の邸宅・荻外(てきがい)荘を探しにいきましょう。途中にイルカをデザインした愛くるしい「交通安全足型」がありました。少々迷いましたが、「近衛」という表札のある、荘重な門構えのある邸宅を発見。ここか… 近くの電信柱にある「荻外荘」という表記だけが、往時の面影をとどめます。住所は荻窪2丁目43番地のあたりです。もちろん内部は非公開。
荻窪編(7):荻外荘(10.11)_c0051620_84823100.jpg

 ウィキペディアから引用します。
近衛家には目白(現在の新宿区下落合)に本邸があり、荻窪の方はあくまでも別邸なのだが、近衞はこの荻外荘がことのほか気に入った様子で、一度ここに住み始めると本邸の方へは二度と戻らなかった。郊外にあるものの、青梅街道に程近い上に国鉄中央本線の駅にも近いという便利な立地にある上、官邸の喧噪とはうってかわって静寂な荻外荘のたたずまいを、近衞は政治の場としても活用した。「東亜新秩序」の建設を確認した昭和15年7月19日の「荻窪会談」や、対米戦争の是非とその対応について協議した昭和16年10月15日の「荻外荘会談」などの特別な協議はもとより、時には定例会合の五相会議までをも荻外荘で開いており、大戦前夜の重要な国策の多くがここで決定されている。昭和16年9月末に近衞から対米戦に対する海軍の見通しを訊かれた連合艦隊司令長官の山本五十六が、「是非やれと言われれば初めの半年や1年は随分と暴れてご覧に入れます。しかし、2年、3年となれば、全く確信は持てません」という有名な回答で近衞を悩ませたのも、この荻外荘においてであった。
 彼が服毒自殺をしたのもここ荻外荘です。なお命名したのは最後の元老・西園寺公望なので、何か由来のある名称なのかもしれません。さて近衛文麿とは何者か、「岩波日本史辞典」から引用します。
1891.10.12‐1945.12.16 政治家。公爵。東京生れ。京大卒。篤麿の長男。五摂家筆頭の家柄で、早くから西園寺公望に政治的将来を嘱望されたが、満州事変前後から親軍的な姿勢を強め、<革新派>の期待を集める。36年の2・26事件後首相に推されたが固辞し、37年6月再び推され組閣。盧溝橋事件後、日中全面戦争化を推進したが、戦争終結の見通しを失い辞職。40年7月以降,第2次・第3次近衛内閣を組閣、対英米開戦を決定的としながら41年10月に内閣を投げだした。45年敗戦後は憲法改正に携わったが、戦犯容疑者に指名され、服毒自殺。
 首相として日中戦争を開始し戦争が泥沼化すると職を投げ出し、対米戦争への道を推し進めながらも日米交渉を続けにっちもさっちもいかなくなると土壇場で職を投げ出した、事態を悪化させておきながら責任から逃避する無責任・無節操な人物という印象をもっています。なお最近読んだハーバート・ノーマンの著作の中で、近衛について触れた一文があるので紹介しておきます。
 迷路のような陸軍の政略のなかで、軍首脳部と高級官僚の間の変転する関係をいく分か述べることが順序であろう。たとえばすでに1933年、近衛公爵の後援のもとに、高級官僚(後藤文夫、広田弘毅、松本学)と軍首脳(荒木貞夫大将、建川美次中将)、金鶏学院の創立者でシュペングラーの翻訳者で軍パンフレットの一部執筆者と信じられている安岡正篤などのファシスト・イデオローグが私的会議や研究会を開催し始め、官、軍、財の中枢指導者が最終的に近衛内閣に融合したとき、これが大きな影響を及ぼすことになった。近衛はこのようにして政治的仲介人、衝突勢力の平衡器、一般的に日本の太平洋戦争準備のための反動派閥集団の安定剤の役割を演じた。(全集第4巻 「日本国家の軍国主義者」 p.420)
 なるほど、戦争を推進しようとした勢力が結集する際の核となったのが、近衛文麿であったという指摘は興味深いですね。なおそのノーマンが「戦争責任に関する覚書」(全集第2巻)の中で、近衛文麿をこう評しています。
 かれは、弱く、動揺する、結局のところ卑劣な性格であった。かれの憂鬱症でさえ、病床に逃げこんで不愉快な決定や相談ごとなどを避けるために使う子供じみた手法である。それはまた一種のずるさをまじえたものであることを過去にさかのぼって証明している。なぜなら、その場合、かれが「政治病」にかかっている時に行なわれた何かの決定については責任を広く同僚に分散できるからである。淫蕩なくせに陰気くさく、人民を恐れ軽蔑さえしながら世間からやんやの喝采を浴びることをむやみに欲しがる近衛は、病的に自己中心で虚栄心が強い。かれが一貫して仕えてきた大義は己れ自身の野心にほかならない。もちろん、その野心は、かれがそれに長じた宮廷風のあいまいな言葉で上品にぼかされているとしても。このような記録に照してみれば、自由主義であるとか民主主義であるとか、はなはだしくは信念の人であるとかいうかれの主張は空ろにまた皮肉にきこえる。(p.344~5)
 きついけれども、これほど冷徹かつ舌鋒鋭い人物評にはなかなかお目にかかれません。近衛文麿の人となりが手に取るようによくわかります。この覚書は、ノーマンがGHQに勤めていた時に、戦争犯罪人に関する調査結果として、1945年11月5日GHQ政治顧問のジョージ・アチソンに提出したものです。実はこの頃、近衛は戦犯として訴追されておらずしかも憲法改正事業に関わろうとしており、日本の民主化に真摯に取り組んでいたノーマンはそれを真剣に憂慮したようです。政治責任を取ろうともしない近衛のような人物が、憲法改正事業を牛耳るようでは日本の民主主義の将来はない、その思いがこうしたきわめて強い提言となったのではないかと、解説の中で大窪愿二氏は推測されています。この覚書がGHQを近衛逮捕へと動かした、そして"弱く、動揺"した彼が自殺を選んだ可能性は高いですね。

 本日の一枚です。
荻窪編(7):荻外荘(10.11)_c0051620_8484917.jpg

by sabasaba13 | 2012-04-01 08:49 | 東京 | Comments(2)
Commented by mesato52 at 2014-07-21 11:27 x
学生時代後半に荻窪団地隣のアパートに間借りしていました
太田黒公園・荻外荘等々大変懐かしく拝見しました
40年前で申し訳ないのですが、太田黒公園ってもう少し雑然としていた記憶があるのですが。
Commented by sabasaba13 at 2014-07-27 18:55
 こんばんは、mesato52さん。そうですか、このあたりにお住まいでしたか。私もはじめて徘徊したのですが、なかなか味のある町でした。太田黒公園も整備されており、紅葉の穴場として推奨できるところです。
<< 荻窪編(8):都庭園美術館(1... 荻窪編(6):大田黒公園(10... >>