小さな築山である御亭山(おちんやま)に上って、潮入りの池を一望、ちょっと将軍の小姓になった気分です。
その隣にあるのが庚申堂鴨場、さきほど見たような細長い水路とその奥に土を盛り上げてつくった小屋(小覗)がいくつもありました。前掲書によると、これは引堀と小覗という鴨場の施設です。この小覗でカタカタと板木の音を出して飼育してあるアヒルをおびきよせると、いっしょに鴨が引堀に入ってくる。土手に待機していた人間の姿を見て驚いた鴨が一斉に飛び立つと、鷹匠が鷹を放ち鴨を捕えるというもの。つまり田園で行う放鷹を疑似体験して楽しんだのですね。なお見張り小屋(大覗)も近くにありました。
そして江戸湾を見渡せる土手にのぼり、すこし歩くと海水の取水口や将軍の御上り場がありました。将軍専用の船着き場ですね。
第二次長州征討の途上、大坂城で病死した十四代将軍家茂の遺体が、官に入れられて到着したのがここです。また、1868(慶応4)年1月12日、鳥羽伏見の戦いに敗れた将兵を大坂城に置き去りにして、その真意を誰にも明かさないまま軍艦開陽丸に乗って江戸に戻った十五代将軍慶喜が上陸したのもここです。
「天皇の世紀 10」(大佛次郎 文春文庫)に下記のような記述がありました。
正月六日夜、大坂を離脱した徳川慶喜は、七日に開陽丸に乗込み、途中海上の風波に難儀しながら十日の夕、浦賀港に入り、十一日に品川沖に着いて翌る日の未明を待って、御浜御殿(今の浜離宮)に上陸した。
そこからは騎馬で千代田城に入った。誰も不意の帰還を予期していなかったので、将軍が戻られたと聞くと、愕然とした。上京した味方の軍が鳥羽伏見で敵と遭遇し戦端を開いたことは急報が入っていても、その後の詳しいことは、まだ判っていなかったのである。(p.11)
うーん、歴史の現場ですね。この風景をみながら慶喜の胸にはどういう思いが去来したのでしょう。恭順、抵抗、尊皇の思い、徳川家存続への執念、薩長への憎悪… ただそこにこの列島に暮らす人民の影がすこしでも脳裡によぎったかどうかはわかりません。そして梅林を抜けて、入口へと戻りました。広々とした素晴らしい庭園でしたが、すぐそばにある高架道路を走る車の騒音が五月蝿いのには閉口しました。
本日の三枚です。