瀬戸内編(18):小豆島(11.3)

 島に上陸し、さてどうしましょう。高松行きの最終便まで約二時間、タクシーを利用するしかありませんね。見たい物件は、尾崎放哉資料館、中山千枚田、中山農村歌舞伎舞台、寒霞渓、オリーブ園、岬の分教場。位置から考えて、帰りは草壁港からの高速船に乗った方が時間を節約できそうです。窓口で手数料を支払い復路の料金を払い戻し、ターミナルから出て、『二十四の瞳』を模した「平和の群像」を撮影。そして客待ちをしていたタクシーに乗り込み、運転手さんに希望する行程を説明しました。彼曰く、寒霞渓はちょっと時間的に無理だが、その他は廻れるとのこと。商談成立、まずは尾崎放哉資料館に向ってもらいました。狭い路地をくねくねと走ること数分で到着です。尾崎放哉(ほうさい)(1885‐1926)、俳人。鳥取県吉方町に生まれる。1902(明治35)年に第一高等学校入学し、荻原井泉水のおこした一高俳句会に入る。東京帝国大学法科に入学後、芳哉の号で高浜虚子選の『国民新聞』俳句欄や『ホトトギス』に投句。朝鮮火災海上保険会社支配人になったが酒癖のため退職。妻と別れ京都の一燈園に入り、のち諸方の寺の寺男となった。25年夏、小豆島の西光寺奥の院の南郷庵に入り独居無言、句作三昧の境に入ったが一年足らずで病没。私が敬愛する吉村昭氏が放哉の最晩年を描いた『海も暮れきる』(講談社文庫)を読んで、その凄絶な人生を初めて知りました。いったんはエリートコースを歩みながらも、酒癖(酔うと目がすわり、辛辣な皮肉・嫌味を相手にあびせかける)によって職を辞めざるをえなくなり、美しい妻に別れをつげ、流浪を重ねた放哉。俳人仲間や周囲の好意で、小豆島の南郷庵の寺守りという安住の地に辿り着きました。彼を世話した宥玄という僧侶は何気なくこう語ります。「外見上、世を捨てたとみえても、かれらが世捨て人とは思いませぬ。よくて半捨て、中には自ら捨てたと思いこむことによって世間に甘え自らに甘えている者もいる。大半の者がそうだと言っていいと思います。(p.62)」 その言は暗に放哉のことをさしているかのようです。禁酒を誓うもたびたび破り、島人にからむ酒乱ぶりはかわりません。酔いが醒めると深甚に反省するのですが、また酒に手をだしてしまいます。貧窮のどん底にありながらも、屈指の俳人であるという強烈な自負をもち、周囲の人々や後輩の俳人が自分に尽くすのは当然だとして金銭や酒をたかる日々。同時に、人の情けにすがらなければ一日も生きていけない己の情けなさに、心苛まれる日々。その救いようもない日常を、感情移入をせず克明に冷徹に描く吉村氏の筆の冴え。やがて結核という病魔が彼の体を容赦なく蝕んでいきます。「かれは、着物の裾を開き、股の間に体温計をさしこんでみた。が、腿も骨が浮き出ていて両股に力を入れてみても、体温計の先端がふとんの上に脱け落ちてしまった。かれは、疲れきって検温をあきらめた。体が痩せこけて体温計すらはさめぬようになっていることに、暗い気持ちになった。体重をはかるすべはないが、もしかすると九貫匁(※約33.8kg)程度しかないのかも知れなかった。(p.199)」 それとともに、夾雑物がとりはらわれたかのように、彼の句は冴えを増していきます。いくつか紹介しましょう。
咳をしても一人
なんと丸い月が出たよ窓
くるりと剃つてしまつた寒ん空
庵の障子あけて小ざかな買つてる
松かさそつくり火になつた
昔は海であつたと榾をくべる
とつぷり暮れて足を洗つて居る
墓のうらに廻る
赤ん坊ヒトばんで死んでしまつた
 そして「春の山のうしろから烟が出だした」という句と、「海が見たい」という言葉を残して、知人の漁師抱かれながら彼岸へと旅立っていきます。その南郷庵を復元して、彼に関する資料を展示してあるのがここ尾崎放哉資料館です。残念ながら時間の制約もあるので展示をじっくりと見ることはできませんでしたが、彼の終焉の地に立っているという思いだけでもう満足。資料館の前には、書名になった「障子あけて置く 海も暮れ切る」という彼の句を刻んだ石板がありました。中山千枚田に行く途中にあったのが世界で一番狭い海峡、運転手さんの話によるとギネスブックに載るためにむりやり開削したそうです。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2012-08-02 07:06 | 四国 | Comments(0)
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