沖縄編(4):本島(03.8)

 翌日はタクシーを一日借り切って本島北部・中部を徘徊しました。まずは佐喜眞美術館を見学。丸木俊・位里さんの「沖縄戦の図」を委託され、この絵を展示するために佐喜眞道夫さんが建てた個人美術館です。在日米軍と交渉して、奪われた土地の一角を取り戻しつくられたので、普天間基地に食い込むように建っています。沖縄戦の悲惨を描きつくすかのような400×850cmの巨大な絵には圧倒されます。他にもケーテ・コルヴィッツやルオーの作品もありました。ここの屋上からは普天間基地を一望できます。ドーナツのようにまあるい宜野湾市のど真ん中を占める暗黒の空虚のような米軍基地。市街地の中に基地があるという恐るべき現実をまざまざと実感できます。館の前には、佐喜眞家の大きな亀甲墓があります。そして凄まじい騒音をばらまきながら、米軍のヘリコプターが上空を疾駆していきました…
 追記。2005年4月1日、イラクに派遣されたヘリコプター22機が普天間と嘉手納に帰還。ヘリ部隊のイラク派遣から八カ月続いた静かな日々は終わり、街に再び爆音がとどろいたとのことです。その中には04年8月、沖縄国際大学に墜落したCH53D大型輸送ヘリの同型機も含まれています。こうしたニュースをきちっと報道して欲しいですね。
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 そして中城(なかぐすく)城へ。せっかくですので、沖縄の古代・中世史を簡単にまとめてみます。沖縄人のルーツは不明です。おそらく九州・奄美からやってきた人々が沖縄諸島に住みつき、南方から台湾経由でやってきた人々が宮古・八重山諸島に住みついたと考えられます。本土では、約2300年前から稲作が開始されますが(弥生時代)、琉球列島ではその後も漁労と狩猟を主とした採集経済の時代が続きます。12世紀頃になると、沖縄は大きな激動の時代を迎えました。農業の開始、鉄器の使用、そして各地に按司(あじ)と呼ばれる豪族が登場し、グスクという砦をつくって対立を始めたのです。また彼らは海を越えた交易にも力を入れました。14世紀になると按司たちによって北山・中山・南山という大きな3つの勢力圏が生まれます。1368年、モンゴル人の国家である元が滅び、漢族の国家である明が成立しました。明はさっそくアジア各国に使いを送り、服属をうながし、中国を中心としたアジア世界の秩序(冊封関係)を作ろうとしたのです。1372年、この使節が琉球にもやってきました。三山の王は争って明と外交関係を結び、他の勢力を圧倒しようとしたのです。そうした中、中山王を滅ぼし国を乗っ取った尚巴志が勢力を伸ばしました。彼は首府を首里城に移し、北山・南山を次々と滅ぼし、1429年ここに琉球王国が成立しました。これを第1尚氏王朝といいます。しかしこの王朝は、有力な按司たちをおさえられず、1469年に滅亡。そして有力な按司である金丸が王位につき、尚円となのります。これが第2尚氏王朝です。以後14~15世紀にかけて、琉球は繁栄し「黄金時代」を迎えることとなります。
 なぜ琉球王国は繁栄したのか? この当時の中国(明)製品は、アジアの人々にとって非常に魅力的なものでした。(ex.陶磁器・絹織物…) しかし明は倭寇といった海賊に中国が荒らされるのを恐れ、厳しい貿易制限策を行ないます。中国と冊封関係を結んだ国としか貿易を許さず、また中国人が海外へ行って貿易をするのも禁止します[=海禁政策]。よってみんなが欲しがる中国製品を、正式なル-トで大量に手に入れることができる国が東アジア貿易を制覇するチャンスが生まれたのです。それが琉球王国でした。琉球は中国によって最も優遇された国で、その進貢の回数は群を抜いています。[明の時代(1368~1644)に171回!] そして琉球は、大量の中国製品を持ち帰り、それを東南アジア・日本・朝鮮で売りさばき、帰りにその国の特産物を船に満載して、琉球の特産物とともに中国で売りさばき、莫大な富を得たのでした。
 というわけで琉球王国は中継貿易により東アジア貿易を制した貿易立国でした。しかし16世紀に入ると、この繁栄にかげりが出てきます。まず明が弱体化し、中国商人が密貿易を活発に行ない始めたこと、そしてポルトガル・スペインが東アジアに進出し琉球にかわって中継貿易を始めたこと、そして日本商人もこの貿易に積極的に加わったことがその理由です。これにより琉球王国の東アジア貿易における独占的地位は、崩壊することになりました。
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 本日の一枚は、佐喜眞美術館屋上から見た普天間基地です。
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by sabasaba13 | 2005-05-25 06:15 | 沖縄 | Comments(0)
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