山形編(9):上山温泉(11.8)

c0051620_6291819.jpg 須川に架かる昔懐かしい木橋を渡り、駅の方へ歩いていくと、あるお宅の玄関に「非核宣言の家 私たちは平和を守ります」というステッカーが貼ってありました。
 非核と平和かあ… 反駁するつもりは毛頭ありませんが、「日本は世界で唯一の被爆国であり、核兵器の恐怖を知悉している。よって国民こぞって核兵器に反対する」あるいは「あの悲惨な戦争を経験した日本人は猛省し、敗戦後に一度も交戦したことはなく、日本人兵士に殺された人もいない。この平和を守り抜こう」というステロタイプ化された固定観念を根底から疑う必要があるのではないでしょうか。さまざまな疑問がわいてきます。日本政府あるいは日本国民は、本気で世界から核兵器を廃絶するために行動を起こしたことがあるのか。核兵器の実験で放射能を浴びた南太平洋の島民や兵士、ウラン鉱山の労働者、原発や核兵器製造工場の近くで暮らす住民、劣化ウラン弾で被曝した住民や兵士、核(原子力)発電所で危険な業務に従事させられる労働者、みな"HIBAKUSHA"ではないのか。そうした方々と連帯し、二度と"HIBAKUSHA"を出すまいという運動に広げていけなかったのは何故か。どうして、豆腐のように脆く不安定な日本列島に、制御された核兵器(原発)を簇生させたのか。それによって利権を貪る企業・官僚・政治家・御用学者・御用メディア=原子力マフィアの存在に、なぜ気づこうとしなかったのか。朝鮮戦争やヴェトナム戦争など、日本はアメリカの戦争に加担しそれによって莫大な利益を得てきたのではないのか。世界の平和を脅かす米軍に、破格の好条件で基地を提供しつづけているのはなぜか。そもそも戦争がない状態だけで平和と考えてよいのか。ヨハン・ガルトゥング氏によればそれは単なる「消極的平和」であって、国際および国内の社会構造に起因する貧困、飢餓、抑圧、疎外、差別がない状態をこそ「積極的平和」ととらえるべきではないのか。だとすると、生活ぐるみ企業に売って凄惨な生き残り競争に駆り立てられ、同僚との連帯をずたずたに引き裂かれ、経済成長と企業の利潤のためにひたすら挺身し、サービス残業・単身赴任・休日出勤を耐え忍び、挙句の果ては使い捨てられるか過労死に追い込まれる労働者が数多く存在するこの日本、本当に平和なのでしょうか。「人権だかジャンケンだか知らねえが、おまえらにはそんな洒落たものはねえんだ」という寅さんの声が耳朶に響きます。「それでも戦争よりはましだ」と仰る方もいるかもしれませんが、これは一種の希釈された戦争状態なのではないか。♪二十四時間戦えますか♪と口ずさみながら働く企業戦士による戦争… やはりあのステッカーは「世界中の核兵器と原発を廃絶し、世界に真の平和を築きあげよう」と書き換えるべきでしょう。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2012-12-03 06:30 | 東北 | Comments(0)
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