松本竣介展

c0051620_6164388.jpg 通勤の際に某私鉄の某駅を利用しておりますが、展覧会のポスターが何枚も並べて貼ってあり重宝しております。そんなある日、すぐに彼のタッチとわかる絵が眼に飛び込んできました。「松本竣介展」… まつもとしゅんすけ、彼の名を聴くと心がふるえます。はじめて彼の絵と出会ったのは、そう、忘れもしません。大学生の時に角川書店のコンパクトな日本史辞典を買ったのですが、その巻頭を飾る文化財カラー写真の一枚が彼の『立てる像』でした。焼け跡の中に足をふんばってすっくと立つ凛々しい若者、敗戦後における再生と復興への希望を彼に託して描いた絵なのでしょうか。しかしその視線は宙をさまよい、その表情に熱情や決意は感じられず、かと言って絶望でも諦観でもない、不思議な静謐さをただよわせています。一目見ただけで忘れられぬ絵となりました。後日にわかったのですが、背景は焼け跡ではなく普通の街並みでした。迂闊にもその暗く静かな色調で勘違いをしていたのですね。なお描かれた年は1942年、東京への空襲が本格化する前です。その後も、彼の画集(新潮日本美術文庫45 新潮社)を購入したり、信濃デッサン館大川美術館川越市立美術館などで実物を見たり、ずっと追いかけ想い続けてきた画家です。
 スーパーニッポニカ(小学館)から引用しましょう。
 松本竣介 (1912―48) 洋画家。旧姓佐藤。東京生まれ。幼少年時代を岩手県花巻、盛岡で過ごし、盛岡中学校1年生で聴力を失い、三学年修了で中退。画家を志して1929年(昭和4)上京し、太平洋画会研究所に学ぶ。35年二科展に初入選、以後毎年出品を続け、ノヴァ美術協会の同人となる。40年二科会の前衛グループ九室会の会員となるほか、二科展で特待を受け、翌年二科会会友となった。
 都会の建物や人物を題材として独自の心象風景を描き、43年には同志と新人画会を結成する。第二次世界大戦後、日本美術会の創立ならびに自由美術家協会の再建に参加し、会員となる。代表作に『都会』『Y市の橋』『立てる像』『運河風景』などがある。
 そう、今年は彼の生誕100年にあたるのですね。そのわずか20年ほどの短い画歴をトレースし、私の大好きな代表作も展示される回顧展、これは女房を質に…入れるわけはないでしょ、忙中に閑をつくり世田谷美術館に行ってきました。東急田園都市線「用賀」駅から、用賀プロムナードを歩くこと十数分、砧公園の中にある世田谷美術館に到着です。入場を待つ長蛇の列ができているのではと戦々恐々としていたのですが、混雑とは程遠い人の入りで落ち着いて鑑賞することができました。でもちょっと残念。
 彼の画風が大きく変化した1940(昭和15)年あたりを境に、前期と後期に分けての構成となっています。前期を代表する作品群が、青色を基調に都会風景を幻想的に描いたものです。自在に配置され浮遊する人物や建物を、爽やかな青が優しく包みこんでいます。彼が描くと、都市の喧騒もこれだけ軽やかに楽しくなるのですね。そして後期は一転して、何か想いを秘めたような自画像や人物像、「無音の風景」と称される精緻にして静謐な街の風景画が中心となっていきます。その変化の背景には、やはり戦争の影を感じざるをえません。次々と召集されていく画友、しかし彼は聴力を失ったため徴兵免除となります。そうした負い目もあったのでしょうか、彼は妻子を松江に疎開させた後も、空襲の激化する東京にとどまり続けます。孤独、寂寥、焦燥、憤怒、そして何よりも絵に対する熱い思い、そうしたものが渾然一体となって彼の画風を変えていったのではないかと想像してしまいます。橋梁、建物、工場、運河、ありふれた人工物ですが、彼の眼がそこに"美"を捉えた光景を、渋く暗い色調と恐るべき静謐さで切り取った作品群。激情も喧騒もなく、清澄で香気のあるエーテルのようなもので包まれた静かな街並みには人影もなく、時々影法師のような人物が佇んでいます。謎のような静寂さの中、よく耳を澄ますと、"した した した"という微かな音が聴こえてくるような気がします。運河が護岸を波打つ音か、影法師の足音か、近づきつつあるB-29の飛行音か… とめどなくイメージが湧き出でてきますが、やがてそれらは街並みの中に吸い込まれていきました。
 そして敗戦、また画風は一転し、粗い筆致による抽象的絵画へと変貌しますが、その最中の1948年に病いのため夭逝。享年36歳。

 スケッチ帳や手紙、彼が撮影した写真、彼が関った雑誌なども数多く展示されており、こちらも見応えがあります。その中でも、彼が発行していた随筆雑誌『雑記帳』を廃刊とするにあたりしたためた通知文の一節に眼がとまりました。
 文化の凡ゆる種子は、今、迷信と狂気と蒙昧の荒蕪の地に放り出されてゐるに等しいと思ふのです。(カタログp.325)
 時は1937.12.17、日中戦争が開始され五ヵ月後のことです。彼が生涯をかけた画業とは、荒蕪の地に文化という種子を撒き続けることだったのかもしれません。なおこの雑誌に掲載された随筆の筆者を眺めていると、「達夫」という名が目に入りました。すわ、林達夫かと思いきや、「郁達夫」でした。浅学故の勘違い、汗顔の至りですが、いったいどういう方なのでしょうか。後で調べてみようと思いましたが、何という偶然、持参した「魯迅 -東アジアを生きる文学」(藤井省三 岩波新書1299)を帰りの地下鉄の中で読んでいると次の一文に出くわしました。"李人傑、郁達夫(いくたっぷ)、田漢、郭沫若など元日本留学生だった中国知識人も内山書店を贔屓にした"(p.138) いやあ読書ってほんとに素敵ですね。どんどん知的な視界が開けていきます。松本竣介、郁達夫、魯迅内山完造を結ぶネットワーク、これから私の中でどんなふうに拡がっていくのか楽しみにしています。

 さて気がついたらもう12時をまわっています。さすがに小腹がへったので昼食をとろうと美術館のレストランに行くと超満員でした。やれやれ。用賀駅に戻ろうと歩きだすと、ちょうど二子玉川駅行きのバスが出発する時刻です。これは「鼎泰豊」で小籠包を食べなはれという天の配剤と見た。さっそく乗り込み、二子玉川の高島屋にある「鼎泰豊」に行くと…長蛇の列ができています。やれやれ。しばらく周辺を徘徊しましたが、いずれの店も大混雑。やれやれ。ショッピングと食事に群がる雑踏の中にいると、さきほどまで浸っていた松本竣介の世界がまるで夢のようです。虚飾、浪費、喧騒。消費をすれば経済が成長するという迷信と狂気と蒙昧、戦前とは違う相貌で現出した"荒蕪の地"を眼前に見た思いです。アルンダティ・ロイ曰く、「非情な消費主義に幸福や達成を感じることに慣らされた、ゾンビ化しようとするシステム(p.3)」(『民主主義のあとに生き残るものは』 岩波書店)。
 松本竣介のリリシズムと静謐さに思いを馳せながら、家路につきました。
by sabasaba13 | 2012-12-13 06:15 | 美術 | Comments(0)
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