『ポピュリズムへの反撃』

 『ポピュリズムへの反撃 -現代民主主義復活の条件』(山口二郎 角川oneテーマ21)読了。石原元強制収容所所長や橋下上等兵らがあいもかわらずメディアをにぎわしています。人を人とも思わぬ傍若無人で粗暴な言動、排他的な愛国主義、己の正義を毫も疑わず敵対する者を悪として誹謗する戦闘的姿勢、見ているだけで辟易してしまいます。なお前者については、気骨あるジャーナリスト斎藤貴男氏による素晴らしいレポート、『東京を弄んだ男 「空疎な小皇帝」石原慎太郎』(講談社文庫)がありますのでぜひご一読ください。彼らに媚び諂う大手メディアが隠蔽するおぞましい言動がたくさん紹介されています。
 さて、こうした政治のあり方をポピュリズムということは知っていましたが、より具体的にはどういうものなのでしょう。政治学者の山口二郎氏がポピュリズムについて考察した本書を読んで、勉強してみました。まずポピュリズムとは、大衆のエネルギーを動員しながら一定の政治的目標を実現する手法だとされます。(p.11) バーナード・クリックのよりくわしい定義では下記のものです。
 ポピュリズムとは、多数派を決起させること、あるいは、少なくともポピュリズムの指導者が多数派だと強く信じる集団(中略)を決起させることを目的とする、ある種の政治とレトリックのスタイルのことである。そのときこの多数派とは、自分たちは今、政治的統合体(ポリティ)の外部に追いやられており、教養ある支配層から蔑視され見くびられている、これまでずっとそのように扱われてきた、と考えているような人々である。(『デモクラシー』) (p.14)
 その手法とはどういうものか。意味のよくわからない言葉によって集団的な興奮や恐怖の状態をつくり出しでいく。(p.48) 真の多数派をもっともらしく、あるいは説得的に描き出し、より多くの人々に自分がそれに属していると感じさる。(p.15) 官と民、高齢者と若年層の間に楔を打ち込み、対立を煽って既得権を奪い、恵まれた境遇の人々の利益を奪うことによって、いわば下に向かっての平等化を推進する。(p.102) 市民を、それぞれが考えて行動する主体ではなく、リーダーの扇動によって操作する対象としてとらえる。そして善悪二元論の図式に乗せ、自分を善玉の味方に位置づけさせ安心させる。(p.109) 既存の政治家や官僚を徹底的に否定して、権力者と人々がテレビを通して擬似的に結合するという手法で支持を集める。(p.112)
 要するに俗耳に入りやすい言葉と、敵-味方という単純な図式を駆使して、人々の不信と不安不満を煽り、支持を広げるのがポピュリズムの本質なのですね。ただ著者は、現代の民主政治には多かれ少なかれポピュリズムの要素が含まれることは不可避だとされ、そのことをわきまえた上で、ポピュリズムが本来持っていた強者への対抗、平等化のベクトルをうまく生かしていくべきだと主張されています。また、丸山真男の下記のような意見も紹介されています。
 政治的な選択というのは、悪さ加減の選択なのです。要するに、悪さの程度が少しでも少ないものを選ぶというのが政治的判断だということです。
 そこの中に二つの問題が含まれていると続いています。一つは、「政治はベストの選択である、という考え方は、ともすると政治というものはお上でやってくれるものである、という権威主義から出てくる政府への過度の期待、よい政策を実現してくれることに対する過度の期待と結びつきやすい」と展開します。
「したがって、こういう政治というものをベストの選択として考える考え方は、容易に政治に対する手ひどい幻滅、あるいは失望に転化します。つまり、政治的な権威に対する盲目的な信仰と政治に対する冷笑とは実はうらはらの形で同居している。政治にベストを期待するということは、強力な指導者による問題解決の期待につながります」と述べている。(p.178)
 政治に対して悲観も楽観もせず、ましてや任せきりにせず、自分の頭と言葉で考えて批判し投票し行動していく。当たり前といえば当たり前の話なのですが、平俗なポピュリズムに騙され振り回されないためには、そうするしかないのですね。

 追記。朝日新聞夕刊(13.1.21)によると、橋下上等兵が桜宮高校の集会で、「学校の中で正しいと思っていたことが外から見た時にどうなのか、もう一度考えて」と生徒に呼びかけたそうです。自分は常に正しい側にいるということを毫も疑わない、ポピュリストの本領発揮ですね。「大阪市の中で正しいと思っていたことが世界から見た時にどうなのか」考えたことはないのかしらん。
by sabasaba13 | 2013-01-22 06:17 | | Comments(0)
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