九州編(18):飫肥(11.9)

 さてそろそろ駅に向かわねば、待っていていただいたタクシーに飛び乗って美々津駅へ。お礼を言って料金を支払い、14:07発の南宮崎行き列車に乗り込みました。車窓からの風景を楽しんでいると、何やら異な物が目に入ってきました。高架の上に太陽発電用らしきパネルが延々と設置されています。まさか、少しでも太陽に近い方が、発電量が増えるなんてことはないだろうし(あるのかな)… 財政逼迫のため途中で工事が中断された有料道路の再利用と見た。
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 そうこうしているうちに15:08に宮崎駅に到着、ここで日南線に乗り換えです。三十分ほど時間があるので、途中下車をして駅構内を徘徊していると観光案内所がありました。
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 周辺の観光資料や地図をいただき、コーヒー・ショップで珈琲を飲みながら、JRの「列車でめぐる極情の旅 霧島・人吉」というパンフレットを眺めていると、「はやとの風」という特別列車の紹介がありました。明日の予定は、姶良(あいら)で「山田の凱旋門」を見学して吉松まで移動、そして「しんぺい4号」に乗って肥薩線を走破し人吉に至る予定です。しかし、隼人-吉松間でこの列車に乗れば、嘉例川(かれいがわ)駅・大隅横川駅という、たいへん鉄分の多い駅に五分間停車し見学ができるとのことです。とくに前者は、"全駅下車達成者"横見浩彦氏が、『すごい駅!』(メディアファクトリー)の中で「これはもう、世界遺産にしたいですね!」(p.34)と絶賛した駅、これは是が非でも訪れてみたい。というわけで、明日、「はやとの風」を予約することにしましょう。
 15:44発、南郷行きの日南線に乗り込み、今夜の宿泊地・飫肥へと向かいます。左手に広がる太平洋を愛でていると、16:57 飫肥駅に到着。
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 まだ陽が沈むまで時間があるので、駅前でタクシーに乗り、坂元の棚田に連れていってもらうことにしました。目抜き通りを走りぬけて橋を渡ると、小村寿太郎のお墓がありました。ちょっと停まってもらい掃苔をしましょう。以下、解説板を転記します。
小村寿太郎(1855~1911)の略歴
 宮崎県日南市飫肥出身。藩校振徳堂に学び、大学南校・現東京大学卒業後、文部省留学生として米国ハーバード大学に留学、帰国後司法省を経て外務省に入り翻訳局長、清国代理公使、外務次官を歴任し、さらに米、露、清の公使となる。1901年(45歳)、桂内閣の外務大臣に就任、1902年、日英同盟締結に成功し、1905年、首席全権大使として米国ポーツマス市で日露講和条約を結び日本に平和をもたらす。1908年(52歳)外務大臣に再任。1911年、米英独仏と、幕末以来の不平等条約を改正し関税自主権を回復する。以後、わが国は諸外国と対等な国際関係になる。勲功により侯爵位を授けられる。同年、神奈川県葉山町にて永眠(56歳)。
 父親から相続した多重債務、わがまま美人妻のヒステリー、近代日本最高といわれる英語力、身長156cmの短躯でついた渾名が「鼠公使」「侏儒大臣」などなどエピソードには事欠かない人物です。そして日清戦争・日露戦争の開戦外交をリードし、ポーツマス講和会議では百戦錬磨のウィッテと渡り合って最低限の"国益"を確保した有能な外務官僚として高く評価されているのは言うまでもありません。なお大江志乃夫氏は『世界史としての日露戦争』(立風書房)の中で、"…明治維新後に育成された新しい官僚出身の外務大臣であり、維新前後の尊攘論をめぐるイデオロギーや政争と無関係な、その意味では主権国家絶対論を当然の前提とする新しいタイプのナショナリスト外交官であった"(p.197)と述べられています。また、その生涯については『ポーツマスの旗』(吉村昭 新潮文庫)という好著がありますので、ぜひご一読を。彼を評価することには吝かではありませんが、手放しでという気持ちにはなれません。日露戦争は、果たして日本の存続にとって不可避・不可欠の戦争であったのか? 二人の研究者の意見に耳を傾けましょう。まずは大江氏の前掲書より。
 自国中心主義ではなく、また国家の存在を絶対視する立場を離れて日本の近代史を見ると、一国史的立場から見た近代史とはちがった歴史が見えてくる。そうした立場からいえる本書の結論は、日露戦争が日露両国の政治的錯誤にもとづく戦争であり、両国にとって必然性をもたない戦争であったという事実である。ただロシアには日本との戦争は絶対に回避しなければならないとする有力な政治勢力が国家権力の中枢に存在したが、日本の国家権力の中枢には対露非戦を主張する政治勢力が国策決定に影響力を行使できるほどの地位をしめることがなかった。(p.706)
 そして小松裕氏は『日本の歴史十四 「いのち」と帝国日本』(小学館)の中で、次のように述べられています。
 日本が満州侵略の野望をもちつづけていれば、いずれはロシアとの激突は避けられなかったであろうが、少なくともこの時点での開戦は避けられた可能性があった。それにもかかわらず、ボタンのかけ違えからしびれを切らせた日本側の主導で始まった日露戦争は、日露双方に膨大な損害を与えることになる。(p.56~7)。
 詳細についてはぜひ両書を読んでいただきたいのですが、私なりにまとめれば、当時の状況は日本という国家の存亡という切迫したものではありませんでした。朝鮮と満州の利権をめぐる鞘当てから、さまざまな偶発事が重なって事態が緊迫し、早期開戦を有利と見た日本が主導して行なった戦争のようです。その開戦外交をリードした一人が、小村寿太郎。前掲書において克明に記されている、肌に粟が生じるような凄惨な戦場の有り様、そして兵士たちが追い込まれた苛酷な戦闘を知った者にとって、何の留保もなく称賛する気持ちにはとてもなれません。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-02-14 15:13 | 九州 | Comments(2)
Commented by りくにす at 2013-02-14 23:33 x
太陽電池パネルが載った謎の高架は、たしかリニアモーターカーの実験線だったと思います。なんとも微妙な「再利用」の風景ですね。
ここが使われていた時分には、幼かった私はリニア超特急が全国を結ぶものだと期待していましたが、実は大量のエネルギーを食う危険なしろものだそうです。
貴重なお写真ありがとうございます。
Commented by sabasaba13 at 2013-02-15 22:08
 こんばんは、りくにすさん。こちらこそ有益な情報をいただいて感謝します。なるほどリニアモーターカーの実験線だったのですね。それにしてもわれわれの血税を湯水のように使った揚句が、太陽光発電の台座ですか。「ごめんですんだら警察はいらない」という金言もありますが、これを計画した御仁たちの責任はどうなっているのでしょう。私たち国民がねちねちと責任を追及しないかぎり、またこうした愚劣な行為はくりかえされるのでしょうね。
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