九州編(33):人吉(11.9)

 その近くにあるのが武家蔵、正面の門は人吉城の唯一の遺構で、中には人吉藩主の相良氏が狩りの休息所として使っていた建物があるそうです。ここにあったのが西郷隆盛の顔はめ看板で、「人吉の西南の役と西郷隆盛」と記されています。
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 まったくもって六日の菖蒲、十日の菊なのですが、人吉と西南戦争とは深い関わりがあることが、今調べてようやくわかりました。1873 (明治6)年3月、田原坂の戦いで敗れた薩摩軍は人吉に退却、永国寺に本部を移して西郷隆盛は戦争の指揮を取ることになります。なお薩摩軍には人吉の士族たちも多数合流していました。6月1日、村山台地に砲台を据えた政府軍は人吉への総攻撃を開始、薩摩軍は総崩れとなって敗走、人吉を捨てて田代、大畑方面へ退却し、大畑に陣を敷きます。なおこの際に、薩摩軍の放火によって町は灰燼に帰しました。それだけでなく、この人吉根拠地の期間中、薩摩軍はこの地域に苛烈な軍政を布き、政府軍と内通した容疑をかけられた住民が捕縛され、証拠も詮議も不十分なまま私刑同然に処刑する残虐が加えられているそうです。熊本城と田原坂で敗北して薩摩武士の自尊心を傷つけられた戦場心理が、弱い者虐めへと向かったのかもしれません。田代・大畑の戦闘でも敗れた薩摩軍は小林・都城方面へ敗走。ということはさきほど通ってきた肥薩線沿線の峻嶮な山道を逃走したのですね。そして宮崎から延岡・大分と敗走しますが、高千穂で見た官軍墓地や美々津にあった記念碑はこの時のものでしょう。九州山地を通って鹿児島へ戻り、9月24日、城山にて西郷隆盛以下 800名が戦死または自決して果てることになります。なお村山台地の人吉西小学校の前に「西南の役官軍砲台跡」があるという情報を得ました。ぜひ再訪を期したいと思います。また徳冨蘆花に、薩摩軍に参加した中津隊兵士の逃避行と、その悲劇的な結末を描いた『灰燼』という短編があります。(『自然と人生』所収)
 1934(昭和9)年創業の老舗旅館、人吉旅館の数寄屋造りの建物を撮影し、青井阿蘇神社へ。本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門といった一連の社殿が、17世紀初頭に同時に造営され今に残るという貴重な物件で国宝に指定されています。堂々たる萱葺きの屋根がお見事。参道にかかる禊は1921(大正10)年竣工で、珍しい三連の石橋です。
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 毅然とした居眠りをしているを撮影し、芳野旅館へ。1909(明治42)年創業の老舗で、茶茎を使って壁を塗ったり、古い船板を床の間に使ったりと、一部屋一部屋凝ったつくりに仕上げてあるそうです。玄関が斜めにつけてあるのは風水によるものだとか。玄関脇にはこちらに泊まった与謝野晶子の歌碑がありました。「撥早く六調子出づ球磨川の画舫を借りて月にあそぶ夜」
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 最後に訪れたのが公衆温泉「新温泉」、もう言葉を失うくらいのレトロな雰囲気には参りました。というわけでタッチ・アンド・ゴーの徘徊でしたが、まだまだおもしろい物件がありそうですね。人吉餃子を食べたかったので、運転手さんに訊ねると、駅の近くにお店はないとのこと。時刻は午後六時過ぎ、そろそろ疲労もたまってきたし探すのも大儀なので八代に移動することにしました。駅舎とからくり時計を撮影し、18:25 発の列車に乗り込みました。
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 球磨川に寄り添うように走る路線なので眺めは良いはずですが、残念ながら日没のため何も見えません。肥薩線のゼロ起点・八代駅に到着したのは19:44。
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 駅前の「球磨川旅館」に投宿し、帳場で教えてもらった「小松」という料理屋に行って刺身定食をいただきました。
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 飲み物を買うために付近を散策すると、"書店にたちよるとあなたを向上させるなにかがある"と記された本屋の看板がありました。「句読点を使わんかい、句読点を」と半畳を入れたくなりますが、内容自体については「異議なあし、議事進行」と総会屋のように叫びましょう。そして部屋に戻り、さきほど購入した「繊月」に喉鼓を打ちながら明日の旅程を確認。早朝に八代駅周辺を徘徊して水俣へ、そして熊本を彷徨して唐津に泊まる予定です。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-03-04 06:20 | 九州 | Comments(0)
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