九州編(46):熊本(11.9)

 そしてこれから「漱石の道」を駆け抜けて夏目漱石記念館へと向かいます。かなりきつい上りなので、背に腹は代えられない、電動を使うことにしました。途中に"菫程な小さき人に生まれたし"という漱石の句碑あり。崖に沿って右へと下るあたりは、熊本市街を一望できる恰好のビューポイント。
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 与謝野寛・北原白秋・平野萬里・太田正雄(木下杢太郎)・吉井勇の旅行記、『五足の靴』(岩波文庫)で下記のようにふれられている場所はきっとここでしょう。
 上熊本の改札口を出て、今まで渇していた東京の新聞を求めたけれども、見附からなかったので、直ぐに人力車(くるま)を走らせた。坂の上から下の市街(まち)を展望すると、まるで森林のようである。が、巨細に見ると、瓦が見えて来る。甍が見えて来る。板塀が見えて来る、白壁が見えて来る。『ああ、熊本はこの数おおい樹の蔭に隠れているのだな。』と思いながら、彼方の空を眺めると、夕暮の雲が美しく漂っていて、いたく郷愁を誘われる。(p.67)
 さすがに木々は数えるほどしか見えず、そうした情景は昔日の感でした。一気に坂を下り、住宅地に入ると「宮部鼎蔵旧居跡」の碑がありました。解説板によると熊本藩勤王党の重鎮、1864(元治元)年、京都池田屋にて倒幕の密議中に新撰組に襲われて自刃した人物。吉田松陰もここを訪れたことがあるそうです。そして夏目漱石旧居(五番目の家)に到着。
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 彼は熊本在住中に、六ヶ所の家を転々としましたが、1898(明治31)年7月から一年八ヵ月と一番長く住んだのがここ坪井旧居。長女筆子もこの家で誕生し、漱石は"安々と海鼠の如き子を生めり"という句をつくっています。なお小説「二百十日」の素材となった阿蘇旅行は、この家にいた時のことだそうです。瀟洒な和風住宅で、付設されている洋館は後にこの家の所有者が増設したもの。座敷には漱石のからくり人形が置かれ、ひもを引くと猫を叩くようになっています。
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 わが畏敬する寺田寅彦が師・漱石とはじめて出会ったのもこの家です。以下、室内にあった解説をまとめてみました。五高の学生だった寅彦が、学期末に成績の悪かった友人のために、点数のことで相談にきたそうです。漱石は点数のことには触れず、「俳句とはレトリックの煎じつめたものである」と教え、その言葉に刺戟された寅彦は、「丸で恋人にでも会ひに行くやうな心持」で、自作の俳句をたずさえて漱石宅をしばしば訪れたそうです。
 先生はいつも黒い羽織を着て端然と正座して居たように思ふ。結婚して間もなかった若い奥さんは黒縮緬の紋付を着て玄関に出て来られたこともあった。田舎者の自分の眼には先生の家庭が随分端正で典雅なもののように思われた。いつでも上等の生菓子を出された。美しく水々とした紅白の葛餅のようなものを、先生が好きだと見えてよく呼ばれたものである。
 うーん、目に浮かぶようですね。家の裏には、寅彦ゆかりの馬丁小屋も残されています。書生にしてほしいと頼み込んだ寅彦ですが、住居となるこの小屋を見せられてあまりの汚さに断念したといういわくつきの物件ですね。
 先生のお宅へ書生に置いて貰へないかといふ相談を持ち出したことがある。裏の物置なら空いて居るから来て見ろといって案内されたその室は、第一畳が剥いであって塵埃だらけで本当の物置になっていたので、すっかり悄気てしまって退却した。併し、あの時、いいから這入りますと云ったら、畳も敷いて綺麗にしてくれたであったろうが、当時の自分にはその勇気がなかったのである。
 漱石は弟子の中でも寅彦を一番畏敬し、「吾輩は猫である」の寒月君のモデルは、寺田寅彦といわれています。彼がつくった短歌です。"先生と対いてあれば腹立たしき世とも思わず小春の日向" 時は日清戦争と日露戦争の戦間期、臥薪嘗胆と唱えながら次なる戦争へとのめりこむ世の中に、寅彦は腹立たしさを覚え、漱石との語らいに一服の清涼を感じていたのかもしれません。

 本日の四枚、一番下が寅彦がたじろいだ馬丁小屋です。
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by sabasaba13 | 2013-03-22 06:16 | 九州 | Comments(0)
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