足尾鉱毒事件編(9):寿徳寺(11.11)

 道をはさんで生家の向かいにあるのが正造の墓です。なお田中正造の徳を偲び、多くの方々が分骨を望んで墓をつくり、現在確認されているのは六つです。今日一日で、すべてを掃苔するつもりです。こちらの墓碑の「義人田中正造君の碑」の揮毫は友人の島田三郎、墓碑に刻まれた「冬ながら啼ねバならぬほととぎす 雲井の尽きのさだめなけれバ」という和歌は正造自筆、そして蓑を着た正造の姿は小中出身で彼の後輩である小堀鞆音が描きました。なおすぐ近くに、「小堀鞆音画伯生家跡」という記念碑があります。
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 同じく近くにある浄蓮寺は田中家の菩提寺、門前には「義人田中正造菩提寺」という碑が建立されていました。
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 小中集落の東北隅にある人丸神社は豊かな湧泉と広い池のある清々しい神社ですが、正造が領主に抗って奥州の獄に入れられた時、彼の身を案じて奥さんが願掛けをしたそうです。
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 さて次は、1989(平成元)年に新たに発見された正造の墓に詣でるため、寿徳寺へ向かいますが、少々長距離移動となります。県道7号線(佐野環状線)をひたすら南下し、両毛線を越えて東武佐野線田島駅のあたりで国道50号線(佐野バイパス)を右折、あとはひたすら西行。途中で渡良瀬川を渡りますが、薄日を水面に映したその荘厳な景色に見惚れて写真撮影。そして持参したMapionの地図を頼りに脇道に入るとしばらくして寿徳寺に到着、人丸神社から一時間弱かかりました。「環境汚染公害対策国際運動之祖 渡良瀬川鉱毒災害民衆運動之父 田中正造翁顕徳之碑」と刻まれた顕彰碑はすぐに見つかりましたが、肝心の正造の墓が見当たりません。
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 案内や表示等もなく、途方に暮れてしまいました。前掲書によると、開山の墓に正造の分骨が合葬されたそうです。ということは、古くて大きい墓なのでしょう。しかし同じような形の墓が櫛比し、おまけに刻まれた字も風雨で摩滅し判読できません。うろうろうろうろ… はた!とひらめきました。持参した前掲書に掲載されている写真をよく観察すると、開山の墓の右手後方にロケットのような目立つ形状の特徴的な墓石があります。これをさがせばいいんだ。きょろきょろ… あった! とるものもとりあえず、合掌。その由来ですが、惣宗寺の本葬に参加した現住職の父と、鉱毒被害地久野村のリーダー・室田忠七たちが、分骨をもちかえり開山の墓に納めて、以来、ひそかに供養を続けてきたとのことです。前掲書によると、室田忠七は克明な『鉱毒日誌』を遺し、1899(明治32)年には、次のような記事があります。
「御真影奉還之件ニ付、稲村忠蔵、室田忠七両人ニテ上京ノ途ニツケリ」(1899.6.14)
「田中代議士トモトモ文部大臣官宅ニ出頭、樺山大臣ニ面接シ御真影還納ノ儀ニ付陳情セリ。夫ヨリ内務省・文部省ニ出頭、前□ノ件ニツキ陳情セリ」(1899.6.15)
 正造の指導を受けて、表向きは鉱毒による生活の疲弊のため御真影を護持できず、これでは申し訳ないので中央官庁に返納したいと上京したわけです。しかしその内実は、利権で結びついた古河鉱業を擁護し、鉱毒被害を放置し、住民の疲弊を一顧だにしない天皇制政府からの離反を宣言する象徴的行為なのですね。それにしても何というしたたかさと豪胆さでしょう。戦う時は武器を選べ、おおいに学ぶべきところがあります。
 なおこの墓地に「チビ之墓」「クロ之墓」という、愛犬なのでしょうか、小さなお墓があったことを付記しておきます。
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 本日の三枚、上から生家前の墓所、渡良瀬川、寿徳寺の墓です。
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by sabasaba13 | 2013-04-22 06:18 | 関東 | Comments(0)
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