足尾鉱毒事件編(20):龍蔵寺(11.11)

 そして豊潤洞へ、もともとは大磯にあった陸奥宗光の別荘で、鉱毒事件を引き起こした古河市兵衛が譲り受けた建物です。1923(大正12)年に関東大震災で大破したのを期に、ここに移転され修復されました。なお両者の親交は深く、宗光の次男潤吉が市兵衛の養子となっています。そのため、農商務大臣をつとめた時には鉱毒問題を不問に付し、第二回議会では田中正造から烈しい批判を浴びせられました。なお潤吉は有能なビジネスマンであったようで、市兵衛のワンマン的経営から近代的な会社組織へと発展させ、古河鉱業の社長となりますが、この時に副社長として迎えられたのが原敬。なお原敬は陸奥宗光の引立てによって栄達の道を歩んだことも付記しておきましょう。そして彼が内務大臣・古河鉱業顧問であった1907(明治40)年に、栃木県に土地収用法を許可し、さらに残留民住居を強制破壊したということも忘れずにいたいものです。政官財の黒い三角形が眼前に浮かんでくるようですね。という曰くのある建物なのでぜひ訪れてみたいと思ったのですが、前掲書の地図を頼りに山中の小道を進んでも見当たりません。運転手さんも所在地を知らないようで、捜索は断念しました。
 松木川(渡良瀬川)沿いの道に戻ると、巨大な鉄管の一部が地上から顔を出す間藤水力発電所遺跡があります。1890(明治23)年に、ドイツのジーメンス社技手ブリュートゲンによってつくられた、日本でも最初期のものである水力発電所の跡です。これによって、大竪坑の排水問題を解決し、坑内にも電灯・電車等を設置することができたそうです。同社によってこの計画が提案された時に、古河市兵衛は簡単な質問をしただけで即決したとか。銅山経営にかける彼の意気込みが伝わってくると同時に、それだけの熱意や資金を鉱毒処理にかけようとしない酷薄さも窺い知れます。労働者や住民の不利益など一顧だにせず、利潤の追求に全身全霊を打ち込む企業家精神、それが近現代日本の経済発展に資したのは認めますが、その犠牲はあまりにも大きすぎました。
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 川に沿ってすこし走ると、すぐ近くに龍蔵寺というお寺さんに到着。
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 こちらには「渡坑夫 共同供養塔」があります。
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 前掲書によると、渡(わたり)坑夫とは、各鉱山を渡り歩いて働く鉱山労働者です。親方について三年三月十日の間修業をしたあと、一人前の坑夫として他の鉱山でも通用するようになりました。病気や災害から身を守るために、友子同盟という相互扶助の仕組みもあったそうです。この坑夫には「よろけ」と呼ばれる職業病がつきまといます。坑内作業で発生する粉塵を吸い込むため、それが肺につきささってその機能を失わせ、体力が低下しよろけるようになります。ついには珪肺結核で苦しみながら死んでしまいます。その激痛のあまり、湯呑み茶碗を握りつぶしたり、障子をめちゃめちゃにしたりしてしまうそうです。「坑夫(だいく)六年、製錬(ふき)八年、かかあばかりが五十年」と言われるほど悲惨な職業病で、1955(昭和30)年に、足尾の労働者が中心となって努力を重ねた結果、珪肺特別保護法がようやく成立したとのことです。また境内の一画には、墓石を集めたピラミッド型の無縁塔があります。
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 「旧松木村の無縁石塔」という解説があったので、転記します。
 この地に足尾製錬所が建てられたのは、明治17年(1884)である。製錬所で鉱石を溶かす時に出る煙の中には、有害な亜硫酸ガスが含まれ、付近の草木を枯らす、いわゆる煙害が出始めた。松木村の記録によれば、明治21年には桑の木が全滅し、22年には養蚕を廃止した。20町歩(約20ヘクタール)の農作物(大麦・小麦・大豆・小豆・ヒエ・キビ・大根・人参)は、33年までに次々と無収穫となった。明治25年まで40戸、人口270名だったものが、33年には戸数30戸、人口174名に減り、34年には1戸を残して全員松木を去り、廃村となった。
 この煙害問題はその後も50年間解決されなかった。しかし昭和31年(1956)自溶製錬法が採用され、硫酸工場が建設され、煙の中から濃硫酸を採るようになって、やっとその根源を断つことに成功し、問題は砂防・造林事業に移った。たまたま昭和31年、足尾ダム(三川合流ダム)が完成し、日本一の砂防ダムとなった。その折、松木川に添った旧松木村の無縁仏をこの龍蔵寺境内に合祀した。なお、久蔵川に添った旧久蔵村の無縁石塔、仁田元川に添った仁田元村の無縁墓(昭和56年12月建設)もこの境内にある。
 そう、足尾銅山によって破滅へと追い込まれたのは、谷中村だけではありません。鉱山労働者や周辺の村々のことを決して忘れないようにしましょう。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-05-06 06:17 | 関東 | Comments(0)
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