京都錦秋編(3):山本宣治の墓(11.12)

 再び自転車にまたがり、近鉄新田辺駅へと帰還。自転車を返却して、近くにあった「新田辺デパート」に寄って飲み物を購入。ペットボトルが98円均一とは安いですね。その前にあった肉屋さんで"昔ながらのイモの香り"、揚げたてコロッケを打っていたので思わず購入。うまいっ…というよりも、揚げたてのコロッケとカレーパンはどんなものでも美味です。腹福、腹福。なおこのあたりはキララ商店街というそうで、飛び出しキララ娘が子供たちの安全を見守っていました。
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 そして新田辺駅から近鉄京都線に乗ること8分で大久保駅に到着、ここから8分ほど歩いてJR新田駅へ、そしてJR奈良線京都行きの列車に乗ると、約 4分で宇治駅に着きました。駅前に出ると、無情にも小雨がそぼふっています。やれやれ… 折れた心を慰めてくれるかのように、茶壺型のご当地ポストが出迎えてくれました。さてここから山本宣治の墓参と花やしき浮舟園にある資料室に行きたいのですが、いかんせん前者の場所がよくわかりません。しようがない、タクシーを利用することにしましょう。客待ちをしていたタクシーに乗り込み、「山本宣治のへ」と告げると…「?????」 やれやれ… ま、そんな物好きな御仁はそうそういないのでしょう。駅の隣にあった観光案内所に飛び込んだ運転手さん、そこで場所を確認してくれました。いたみいります。数分走ると小高いところにある墓地に到着、生け垣に囲まれ「花屋敷 山本家之墓」と刻まれている立派な墓石をすぐに見つけることができました。これが山本宣治の墓です。合掌。それでは岩波日本史辞典より、彼について紹介しましょう。
山本宣治(1889‐1929) 生物学者、社会運動家。京都府生れ。キリスト教の影響下に育ち、カナダで苦学後、三高・東大を卒業。同志社・京大で<人生生物学>を講じ,性教育を試みる。1922年サンガー夫人来日を機に産児制限運動をおこし、25年「産児調節評論」を創刊。24年京都労働学校校長など労働者教育運動にも取組むとともに、政治研究会を経て26年労農党に入党、28年第1回普選に同党公認で当選。3・15事件後、官憲の弾圧や山東出兵反対の論陣を張り、政治的自由獲得労農同盟の唯一の議員として治安維持法改悪を痛烈に批判したため、右翼青年に暗殺された。
 なお、犯人は右翼の七生義団員黒田保久二であったことを付記しておきましょう。なおウィキペディアによると、山本宣治の研究者・本庄豊は、戦後に国会議員となった元特別高等警察官僚54人の中から、山本に対し「特別の反感や怒り」を抱いた人物を絞り込んだ結果、大久保留次郎が黒幕ではないかと結論づけているそうです。また黒田は6年の服役で、残余の刑を免除され出所されました。また最近読んだ「日本の百年5 成金天下」(今井清一 ちくま学芸文庫)に、山本宣治に関するまとまった記述がありましたので紹介します。
 女性を、その重苦しい生理的宿命から解放しようという際立った運動の一つに、産児制限運動があった。1922年にはじめられた山本宣治を中心とする産制運動、翌年には毎日新聞が、次のように書かざるをえなかったほど、驚くべき伝播力をもった。
「東京方面の運動が主として中産階級以上を目標としているのにたいし、関西側は無産階級をねらい、簡易猛烈に宣伝しているため、会員は大阪だけでもすでに新春(1923年)以来一千名をこえ、毎日申し込み五十名を欠かさぬ盛況である。しかしてこのさいいっそうの運動の陣容をととのえ、目下の計画でもパンフレット二万、ポスター五万を撒布し、演説会、講演会など随所随所に開会し気勢をあげるというのであるから、運動対象の質といい伝播の量といい、ゆゆしき社会問題である。」 (p.369~70)

 山本宣治が、産児制限運動に深い関心をもちはじめたのは、1921年に生まれた四番目の治子が不具だったという自分の体験からだった。彼はこのとき以来、極度に同情深くなった。そして、自分の学問と世の人びとの不幸とを結びつける接点を、この産児制限運動に発見したのである。山宣は従弟の安田徳太郎に、こう言った。
「かりに治子のようなこどもが、おれの家ではなく、裏長屋にでも生まれてみろ、可哀そうで見ておれんじゃないか。」(西口克己 『山宣』 1960)
 1922年の三月、アメリカからやってきた産児制限の運動家サンガー夫人の通訳を、よろこんで引き受けたのも、そのためだった。
 サンガー夫人の訪日は、まるで「大正の黒船さわぎ」だった。日本の官憲は、日本帝国の領土内でサンガー夫人が産児制限の講演をすることを禁じ、彼女がもってきた宣伝用パンフレットを、横浜埠頭で押収した。ただ、京都市医師会主催の専門家を対象とする特別講演だけは、当局の許可するところとなり、山宣はその通訳をつとめた。
 山宣は、そのときの講演を日本語に翻訳し、文献的批判を註として付けくわえたパンフレットを、自費で出版した。警察に押収されることを恐れて非売品とし、表題も「山蛾女史家族制限法批判」という奇妙なものを選んだ。
 このパンフレットは、「警察の豚箱に放り込まれるよりは、女房の腹のふくれるほうがこわい」という、食うのに精一杯の労働者階級に、大きな反響を呼んだ。1923年、山宣は、総同盟の南村四郎にすすめられて、労働者教育にのりだした。虐げられた民衆の解放のために、彼は自分の学問を役立てようと、大阪労働学校で生物学や進化論の講義を受け持った。そして同時に、全国各地へ足を運んで、女性を生理的・階級的宿命から解放するための講演をした。
「このころは…日本の労働争議にもイギリスの産業革命で見られたあのラッダイト運動のように、機械破壊の英雄的行動がとられた。たとえば大阪市電の争議ではストライキ団が艀を仕立てて安治川口の発電所のダイナモに砂利をなげこむという方法が計画されたりした。こういう素朴な機械破壊にたいして科学者としての山宣が大きな不満をもったのは当然であった。…教師は何よりもまずわが国の労働者にたいして科学的な物の見方を啓蒙して、科学と機械の尊ぶべきことを教え込まねばならぬ。科学と機械によってのみ日本の労働者階級も解放されるのだ、これが山宣の労働者教育の持論だった。」(安田徳太郎 『山本宣治選集・4』解題、1943) (p.370~1)


 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-05-16 06:18 | 京都 | Comments(0)
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