『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』(パブロ・カザルス アルバート・E・カーン編 吉田秀和・郷司敬吾訳 新潮社)読了。チェリストの末席を汚す者として、やはり特別な存在です。その剛毅な演奏もさることながら、現代チェロ奏法の確立、忘却されていたJ・S・バッハの『無伴奏チェロ組曲』の発見、コルトー(p)とティボー(Vn)と結成した黄金のトリオでの活躍、個性豊かな指揮など、20世紀の音楽史に燦然と輝く足跡を残しました。そして忘れてならないのは、暴力と戦争と圧制を憎み、自由と音楽と何よりも人間を愛し、それらを守るために闘い続けたこと。まさしくhumanityを体現した人物です。人間を踏みにじりながらの容赦なき経済競争がまかりとおる今だからこそ、思いを馳せるべき方ですね。本書は、カザルスが自らの人生を思い起こした自伝です。彼は編者であるアルバート・E・カーンに、「私の生涯が自伝を書いて記念するほど価値あるものとはどうしても思えない。私はなすべきことをしたに過ぎないのだから」と言ったそうです(p.2)。"なすべきこと"をなさない、いやそれを見失いつつある時代、彼の言葉と行動は私たちを勇気づけてくれるでしょう。
1876年、スペインのベンドレルに生まれた彼に、最も大きな影響を与えたのは母です。法律というものはある人達を守るが他の人々には危害加えるものであり、個人の良心を最高の掟とすべきだと教えた母。弟のエンリケが徴兵された時に、彼女は躊躇なく彼を国外へ逃がします。「エンリケ、お前は誰も殺すことはありません。誰もお前を殺してはならないのです。人は、殺したり、殺されたりするために生れたのではありません…。いきなさい。この国から離れなさい」(p.15) そしてバルセロナの音楽院で学んでいた時に、港の近くにある楽譜店で偶然出会ったのがJ・S・バッハの『無伴奏チェロ組曲』でした。長文ですが引用します。 つぎに、私たちは港の近くの古い楽器店に立ち寄った。束ねて積んである楽譜を拾い読みしていたが突如、一束の楽譜を見つけた。古くなっていてくしゃくしゃになっており、色もあせていた。それがなんとヨハン・セバスチャン・バッハの無伴奏組曲-チェロ独奏のためのだった。私は驚きの目をみはった。なんという魔術と神秘がこの標題に秘められているかと思った。この組曲の存在を聞いたことは一度もなかった。誰ひとり、先生さえも私に話したことはなかった。なんのために私たちが店に来ているかを私は忘れた。ただ楽譜をながめ抱きしめるだけだった。あの光景は一度もうすれたことはない。今日でもあの楽譜の表紙を見るとかすかな潮の香をするかびくさい古い店に私は帰っていく。私は組曲を王冠の宝石のようにしっかり抱きかかえて帰宅した。部屋に入るなり、楽譜をむさぼるように繰り返し読んだ。あれは私が十三歳の時だった。しかしそれからの八十年間発見の驚きは増しつづけているのだ。あの組曲が私に新天地を開いてくれた。私は言葉には言えない興奮をおぼえながら組曲を弾きだした。そして私の最愛の音楽になった。私は十二年間、日夜、この曲を研究し弾いた。私がこの組曲の一つを演奏会で公開する勇気が出るまで、そうだ十二年かかり、私も二十五歳になっていた。それ以前には組曲の一つを全部とおして演奏したバイオリン奏者もチェリストもいなかった。ほんの一部だけ-サラバンド、ガボット、メヌエット-が弾かれた。私は全組曲を演奏した。前奏曲から舞曲の全五楽章を繰返しを省略しないで。なぜなら繰返しによって全楽章の見事な全体性と歩調と構造、それに完全な建築性と芸術性が与えられるからだ。ところがこの作品が以前は単に機械的で暖かみのない衒学的なものと考えられていたのだ。作品の全体から輝きと詩があふれ出るのにどうして人はこの作品を冷たいと考えることができたのであろうか。この作品はバッハのまさに精髄であり、又バッハこそ音楽の精髄である。(p.41)そしてこの頃のバルセロナは工業化が進み、労働者たちは貧困と汚辱に苦しんでいました。その地獄を見たカザルスは深刻な危機を経験し、その中から、後の彼を支える信念となる「音楽はある目的に奉仕しなければならない。音楽はそれ自体より大きなものの一部-ヒューマニティの一部-でなければならない」という考えを抱くようになります。 研鑽の末、やがて国際的チェロ奏者として活躍するようになりますが、当時彼はテニスにも夢中でした。友人たちに「初めにテニスを6セットやり、それからブラームスの六重奏曲を二曲やろう」と言ったそうですが、私もこんな台詞を言ってみたいものです。 そして1936年、スペイン内戦が勃発、彼はチェロと指揮棒を武器にして自由と民主主義のために活動を行ないます。特別演奏会では、ラジオを通じて私は世界中の民主主義国にメッセージを送りました。「スペイン共和国を見殺しにするような罪を犯さないで下さい。あなた方がスペインでヒットラーの勝利を許すならば、あなた方は彼のつぎの狂気のいけにえになるだろう。戦争はヨーロッパ全土に広がり、全世界に及ぶだろう。我が国民の援助のために来たれ」 しかし内戦はフランコの勝利に終わり、カザルスは祖国を去り、フランスの寒村プラド、ついでプエルト・リコに移ります。さらにフランコによるファシズム体制が終わらぬ限り祖国へは帰らず、また演奏もしないことを宣言。それを惜しんだ世界各国の音楽家たちが、カザルスのもとに集まって音楽を奏でようと始めたのがプラド音楽祭なのですね。そして二度と祖国の土を踏むことなく、1973年、プエルト・リコのサン・フアンで永眠。享年96歳。この自伝の最後は次の言葉でしめくくられています。 たぶん、カタロニアを二度と見ることはあるまい。息のある中に自由がわが愛する祖国にもどると、長い間私は信じていた。でも今は自信がなくなった。自由がくることはわかっている。それを思うと私は嬉しい。だが生きて見られないことは哀しいことだ。何年かに一度は読み返したくなる本です。それでは本書より、カザルスの力強く美しい言葉を引用しましょう。 人が仕事を止めずに、周囲の世界にある美しいものを吸収しつづけるならば、年齢を重ねることが必ずしも老人になることでないことがわかるのだ。(p.9)
by sabasaba13
| 2013-06-03 06:13
| 本
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自己紹介
東京在住。旅行と本と音楽とテニスと古い学校と灯台と近代化遺産と棚田と鯖と猫と火の見櫓と巨木を愛す。俳号は邪想庵。
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