スペイン編(16):サグラダ・ファミリア聖堂(11.12)

 内部もほとんど完成しているようで、先端が枝別れした列柱がまるで原生林のように並んでいます。
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 そしてこれからの約二十分は、ガイドさんの案内に同行するか、自由行動か、選べることができます。われわれはもちろん後者を選択、地下にある資料室をざっと見て、ロザリオの間をさがしました。実は、来西直前に、ガウディと同時代のバルセロナの関係を鋭く描いた『ガウディ伝 「時代の意志」を読む』(田澤耕 中公新書2122)を読んできたのですが、その中に、下記のような一文がありました。
 アントニ・ガウディが設計したサグラダ・ファミリア教会のロザリオの間というところに、周りの彫刻群とは異質の彫刻がある。労働者が悪魔から爆弾を受け取ろうとしている姿である。この彫像には「誘惑」という名が付けられた。
 サグラダ・ファミリア教会で働く彫刻家外尾悦郎は著書『ガウディの伝言』のなかで、この像について興味深い指摘をしている。この像を作るモチベーションをガウディに与えたのは、1893年のリセウ劇場爆弾テロ事件の犯人、サンティアゴ・サルバドールであろうというのである。ちなみに、現在の彫刻は、内戦で半ば破壊された像を、外尾が写真を元に復元したものである。
 リセウ劇場の惨劇の夜、その場に、かつてガウディが恋心を抱いたといわれるパペタ・ムレウの親族がいた。この事実は、事件からガウディが受けた衝撃を、一層、個人的なものにしたであろう。
 しかし、ガウディはその怒りと憎悪を直接的に表現することはしなかった。それを外尾は、この「若者の指先がわずかに浮いていたこと」に読み取ったのである。若者の指が浮いているのは、悪魔からの誘いに一瞬ためらったからだ、と解釈した。爆弾を投下する前に、一瞬でも聖母マリアに「無実の人たちを殺すことは本当に正義なのか」と問いかけてくれたら、惨劇は起こらなかったのかもしれない。この像に、ガウディのそんな思いを見たのである。
 ガウディの作品に長年、身近に接しつづけてきた外尾ならではの見方であろう。(p.157~8)
 19世紀末のバルセロナは繊維工業を中心に急速な工業化が進み、ブルジョワたちは先進工業国に対抗するために、労働者たちに低賃金・長時間労働を強いていたようです。また中小企業が多かったバルセロナでは、経営者と労働者の距離が近く、彼らの不満は経営者個人に向けられました。その中でも過激なアナキストが直接行動に走り、前掲書によると、国家製造推進協会の爆弾テロ(1891)、ライアル広場の爆弾テロ(1892)、マルティネス・カンポス将軍に対する爆弾テロ(1893)、リセウ大劇場の爆弾テロ(1893、死者20人)、カンビス・ノウ通りの聖体の日の宗教行列に対する爆弾テロ(1896、死者12人)といった事件が19世紀末に頻発しています(p.160)。なお、故郷ベンドレイからやってきたパブロ・カザルスもこの頃のバルセロナで若き日々を暮らして下層市民の困窮と悲惨を目の当たりにし、精神的な危機を経験してやがて「音楽はヒューマニティの一部である」ことに開眼したのですね。『喜びと悲しみ』(新潮社)の中で、彼はこう語っています。
 私は十代で人生の最初の深刻な精神的危機を経験した。…以前は実に多くの美を私は発見した。しかし今は余りにも多くの醜悪さが私の目に映る。なんと多くの邪悪と苦悩と悲哀! 私は思った、人間はこの汚辱と堕落の中で呻吟するためにつくられたのか。周囲のどこを見ても私の目に映るのは苦悩と貧困と悲惨と人間同士の残虐の証拠だけだった。私は、飢えの中で、子供に与える食物もない人達を見た。巷には物乞いがあふれ、金持と貧乏人の不平等が積り積っていた。下層の人たちが毎日耐えている迫害、冷厳な法律と抑圧的な措置を目の前に見た。不正と暴力に反発を覚え、腰から剣を下げた警官を見て身震いした。日夜こうした現状を憂えた。私はバルセロナの通りを嘔吐をもよおし、不安におののきながら歩いた。私は心の地獄の中にいて世の中の人々にさからった。夜明けにおののき、夜がくると睡眠の中に逃避した。なぜこの世にこのような悪が存在するのか、なぜ人間は互いにこのような事をしなければならないか、このような状況下で人生の目的、私自身の存在の目的はどうなるのか、私には合点がいかなかった。人々は利己主義で身を固めていた。どこに憐憫の情を見出しうるかと自問した。
 私はもはや音楽に没入できなくなった。いやいかなる種類の芸術もそれ自体解答になりえないと当時感じたが、その後も考えは変らない。音楽はある目的に奉仕しなければならない。音楽はそれ自体より大きなものの一部-ヒューマニティの一部-でなければならない。私の今日の音楽に対する主張の中心はじつはこのこと-音楽における人間性の欠如ということなのである。音楽家もまた一個の人間である、そしてその音楽よりも重大なものは人間に対する音楽家の態度である。そして両者-音楽と人間性-は決して切り離すことができない。(p.44~45)
 というわけで、この彫像はぜひ見てみたいものです。聖堂内を右往左往し、係の方に訊ねてやっとロザリオの間にたどりつきました。そして入口の上部にあった「誘惑」を発見。
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 あわててどこかを駆け上ろうとしている男の左手に爆弾を手渡そうとしている大きな手、しかし彼の指は完全に触れてはいません。外尾氏はそこに逡巡を読み取ったのですね。世紀末のバルセロナの悲惨を目の当たりにし、無差別暴力を否定したガウディと、ヒューマニティに目覚めたカザルス、二つの偉大な魂が私の中で出会ったような気がしました。一般民衆の犠牲を眼中に入れず暴力で事態を解決しようとする人びとに、ぜひこの「誘惑」を見てほしいし、カザルスの「鳥の歌」を聴いてほしいものです。特にバラク・オバマ大統領には。そうそう、パブロ・ピカソもほぼ同時代にバルセロナの美術学校にいたのですが、彼はこの悲惨をどう見たのでしょうか。気になるところです。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-06-20 06:17 | 海外 | Comments(0)
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