本州と九州を結ぶ関門
大橋の下をくぐると、「壇ノ浦古戦場址」に到着です。波に乗る源義経と碇を持ち上げる平知盛が対峙する
銅像がありました。平知盛、平清盛の四男、清盛の死後平氏一門の中枢を担い、壇ノ浦での平氏滅亡を見届けた後、自害した武将ですね。享年34歳。『平家物語』には、彼の味のあるいい言葉がちりばめられています。息子の知章が討ち取られる間に、自分は逃げ延びた時の言葉「我が身の上になりぬれば、よう命は惜しいもので候けりと、いまこそ思ひ知られて候へ」(巻9)、と嘆いたとあります。また船に乗り切れない愛馬を陸に向けて逃がした時、名馬が敵のものになるのは惜しいと部下が射殺そうとするのを、「わが命を助けたらむものを。あるべうもなし」(巻9)と止めます。壇ノ浦合戦(巻11)では、味方の敗北は決定的と見た知盛は、「世の中はいまはかうと見えて候。見苦しからむものども、みな海へ入れさせ給へ」と言って、自ら御座船の掃除を始め、女房たちには「珍しき東男を御覧ぜられ候らはむずらめ」と冗談を言ったりします。そして最後に「見るべきほどのことは見つ」と言って、海に身を投げます。命への敬虔な思い、どのような状況でも心のゆとりを忘れずに最善を尽くし、それでも及ばない時には従容として運命を受け入れる、素晴らしい人物造形ですね。敬意を込めて写真を撮影。

その先は海峡の最も狭いところで、長州藩は幕末に壇ノ浦砲台を築き、1863(文久3)年には外国船への砲撃(攘夷)を決行したのですが、その時に使われたカノン砲が復元されていました。なお翌年には、貿易への障害を排除すると共に攘夷勢力への見せしめのため、四国連合艦隊が攻撃、完膚なきまでに破壊されたのですね。なおフランスが持ち帰った砲が、パリのアンヴァリッド軍事博物館にあるそうでいつか見てみたいものです。

そしてUターンし、老舗の料亭「春帆楼」へ。伊藤博文の命名で、「フグ食用禁止令」を解禁した彼が「ふぐ料理」を公許した第一号店だそうです。そして1895(明治28)年、日清戦争の講和会議場となり、その際に使われた調度品などが「日清講和記念館」として無料で公開されています。さっそく入館して、ガラス越しに椅子、ランプ、ストーブなどを拝見。

伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章がやりあう姿が髣髴と浮かんできますが、勝利した日本側の強硬な要求に清国側は屈することになりました。あまり語られることのない戦争ですが、日本近代史における大きな転換点だと思います。日本を「圧迫された国」から「圧迫する国」に転換させた戦争、貧しい国・日本が豊かになるために、もっと貧しい国・中国を搾取する第一歩となった戦争、そして敗れた中国民衆の悲惨さが「だからこそ対外戦争には負けてはならぬ」「だからこそ大日本帝国はありがたい」という文脈へと誘導されていくきっかけとなった戦争。よろしければ「
日清戦争 東アジア近代史の転換点」(藤村道生 岩波新書D127)と「
旅順と南京 日中五十年戦争の起源」(一ノ瀬俊也 文春新書605)の書評を拙ブログに上梓してありますのでご覧ください。なお出典を明らかにできず申し訳ないのですが、李鴻章が下記のような覚書を日本側に渡したそうです。
領土割譲は清国民に復讐心を植えつけ、日本を久遠の仇敵とみなすだろう。日本は開戦にあたり、朝鮮の独立を図り、清国の領土をむさぼるものではない、と内外に宣言したではないか。その初志を失っていないならば、日清間に友好・援助の条約を結び、東アジアの長城を築き、ヨーロッパ列強からあなどられないようにすべきである。
もしこの訴えが心に響き、それを受け入れていたら大きく歴史は変わっていただろうなあ。なお記念館の脇には伊藤博文と陸奥宗光の胸像があり、すぐ前にある小道は彼がよく散歩したことにちなんで「李鴻章道」と名付けられていました。
本日の三枚です。