それでは古い港町・牛窓へとまいりましょう。11:23発の呉線三原行きの列車に乗り、三原で新幹線こだまに乗り換え岡山へ。赤穂線に乗り換えて13:18に邑久(おく)駅に到着。しばらくバスはないので、断腸の思いでタクシーを利用することにしました。しばらく走ると、運転手さんから「途中に竹久夢二の
生家がありますが、寄りますか」という嬉しいオファーがありました。寄らいでか! とりたてて熱烈なファンというわけではありませんが、気になる人物です。邑久駅から十数分走ると、萱葺き屋根の竹久夢二生家跡に到着。彼は1884(明治17)年9月16日、ここ岡山県邑久郡本庄村(現邑久町)の酒屋に生まれたのですね。たまたま読み終わった『日本の百年5 成金天下』(今井清一編著 ちくま学芸文庫)に次のような記述がありました。
岡山県の片田舎の造酒屋に生まれた夢二は、たしかに、後の夢二を思わせる少年時代を送ってはいた。
「世の忠臣孝子が、楠正成や二宮尊徳の美談を熟読しているときに、ぼくは、うす暗い蔵の二階で、白縫物語や枕草子にふけって、平安朝のみやびやかな宮廷生活や、春の夜の夢のような、江戸時代の幸福な青年少女を夢みていたのだ。ああ、早く『昔』になればよいと思った。」(『夢二画集夏の巻』 1910年) (p.176)
一時期、彼は平民社で活躍し、日露戦争を批判するイラストなどを寄稿していました。中でも私が好きなのがこの一枚、兵営に引きずり込まれようとしている農民を、官僚や資産家らしき人たちが愛国心を梃子にして後ろから押している絵です。自分たちが戦争に行く気配はまったくありませんね、いつの世も同じです。

しかしその後、彼は政治的な活動から一切手を引いてしまいます。前掲書には"
大逆事件が、啄木や荷風や鷗外にとってショックだったように、夢二にとっても、打撃だったかもしれない"とありますが、私も同感。しかし、そうした証言は、ひとつも残されていません。著者の今井氏は"残されたもの、それは、彼の絵にある「弱者の弱者なりの自己主張」だった"(p.179)と述べられています。なお近くには、彼が世田谷区松原に自ら設計して建てたアトリエ付住宅「少年山荘」又の名を「山帰来荘」が復元されています。前者は、宋の詩人・唐庚の「酔眠」から名付けられ、少年の日の如く長い一日をここで暮らしたいという願望が込められているそうです。また後者の「山帰来」はこのあたりの山野に自生している植物ですが、彼は最愛の人・彦乃を「山」と呼んでいたことから、彼女が再び戻ってくるようにと願って名付けたとも言われるそうです。
本日の二枚です。