『キーワードで読む現代日本社会』

 『キーワードで読む現代日本社会』(中西新太郎+蓑輪明子編著 旬報社)読了。『人生と運命』(ワシーリー・グロスマン みすず書房)という、スターリングラードの戦いを軸に、時代や国家に翻弄される人物群を描いた超弩級のおもしろい小説を読んでいたら、次のような言葉がありました。
 反ユダヤ主義は、自らの不幸と苦悩の原因を究明する力のない国民大衆の意識の低さの表われである。無知な人々は、自らの大きな不幸の原因が国家機構や社会制度にではなくユダヤ人にあると見る。(第2巻p.262)
 また最近読み終えた『自由を耐え忍ぶ』(岩波書店)の中で、テッサ・モーリス-スズキ氏はこう述べられています。
 …多くの人々は、不公正で欠陥に満ちた社会に生きていることを自覚しているが、その社会を改革するための貢献の手段を見出せないでいる。何もすることができないまま不公正な社会を生きるには、その対応として次の二つの選択肢を採用する。一方は、世界を変えることのできない自分自身の無力さを嫌悪することであり、他方は、外部に標的を定めて感情を表出することである。そして不公正の原因が特定できない時、この怒りの破壊的な力は、壊しやすいものに向くことになる。すなわち弱者や少数者や異物が標的と定められる。(p.206~7)
 寸鉄人を刺す、いずれも鋭い指摘です。小生のような凡俗の人間がもやもやと感じていることを、的確かつ明瞭に言葉として提示する。やはり知識人というのはこうでなくちゃいけねえ、とあらためて感じ入った次第です。それにしても、生まれも育ちも、知的環境や生きている社会の状況もかなり違うであろう両者がほぼ同趣旨のことを語っておられるのは興味深いですね。これは20世紀の、いや人間の歴史を通じての宿痾かもしれません。そして両者が言い当てている状況こそ、現在の日本そのものではないでしょうか。不公正と欠陥に満ちた社会に暮らし、不幸と苦悩と無力感に苛まれる人々。その原因が国家機構や社会制度にあることを究明できず、また改革できず、怒りの感情や力を弱者や少数者や異物にぶつける人々。人々の怒りをぶつけやすい弱者や少数者や異物を上手に見つけ出す/つくりだすのに長けた石原氏や橋下氏が支持を得ているのも宜なるかな。しかしどうみてもこれは病的な社会です。ワシーリー・グロスマン氏言うところの"意識の低さ"を改善し、テッサ・モーリス-スズキ氏言うところの"社会を改革するための貢献の手段"を見出すにはどうしたらよいのか。月並みですが、まず多くの日本人が抱えている不幸や苦悩の原因の多くが日本の国家機構や社会制度に起因すること、自然現象ではなく人為的・歴史的な現象であることを理解すること。そのために、それを誰もが(とくに若者に向けて)納得できるようにわかりやすく解き明かしてくれる良書を読むことでしょう。しかし言うは易く行うは難し。個別テーマごとでは思い当たる本はあるのですが、ざっくりと現在における日本社会や機構の問題点を概括して抉り出し、それを若者に向けて説明してくれる本なんて…あった。
 そうした得難い存在が本書です。まずはその志を「本書を読み進めるにあたって」から引用しましょう。
 みなさんが生まれたころの日本社会にもさまざまな問題がありましたが、いまは日本社会がもともと持っていた問題を凝集しつつ、さらに新たな問題が生み出された時代です。かつての日本社会は、普通の人たちの仕事や生活に関わる問題を克服するためのしくみが曲がりなりにもはりめぐらされていましたが、現在では、そのしくみがどんどんと壊されていき、普通の人たちが不安でいっぱいになる社会がつくられたのです。(p.13~4)

 本書は、みなさんに不安をもたらす、労働や貧困の問題を扱っているため、時に「知りたくない」事実を突きつけられたと感じることがあるかもしれません。しかし、どんなにつらい事実を突きつけられようとも、問題の解決はまず事実を知り、問題のかたちやメカニズムを知ることから始まります。
 しかも大切なのは、問題解決の道すじがあるからこそ、問題を認識できるということです。現実に解決の道すじのない問題は、そもそも問題として認識されないのです。「課題はその解決の手段と同時に生じる」(マルクス)。私たちが「これは社会にとって解決しなければならない課題である」と認識した時点で、その解決の手段を導き出すところまであと一歩なのです。(p.16~7)
 事実、問題のかたち、そしてメカニズムを知ることが、問題解決の第一歩である。勇気づけられる言葉ですね。そして「労働」「貧困」「大人になる」「資本主義」「福祉国家」「新自由主義」という六つの重要なテーマについて、事実や問題点をわかりやすく解き明かしてくれます。一つだけ例をあげましょう。「就職できない」「大人になれない」という若者の不安に対して、"自己責任"という冷酷な言葉で切り捨ててしまう言説をよく見かけます。これに対して著者の一人である植上一希氏は、現実としてこうした指標をクリアすることが困難になってきているという現実を指摘されます。従来、日本型雇用では、大学生を始めとする新卒者を採用し、長期雇用のなかで企業内教育をおこない、彼らを企業にとって役立つ労働力に育成してきました。また、こうして育てた労働者が辞めてしまうことを避けるために、年に応じて処遇を上げる年功型処遇や福利厚生も充実させてきました。このシステムによって、かつての若者たちは「大人」になってきたのですね。もちろん、女性の多くは、主婦として、男性の補助となっていくことを前提としているという問題点はありますが。しかしよく考えると、日本企業はグローバル化のなか、生き残りをかけてこのシステムを放棄しました。よって若者たちの不安には根拠があり、それを自己責任・努力不足だとして批判・非難するのは当たらない。「大人になる」こと自体を批判的に見直す必要があるのではないかと、主張されています(p.48~61)。 それでは、日本型雇用を廃棄した企業はどうような雇用形態を導入したのか、その世界的な背景は何か、そして問題点は? これについても章をあらためて説明されていますが、全体として、グローバリゼーションの進行と、それに対する日本的な対応とくくることができると思います。百聞は一見に如かず、ぜひご一読をお薦めします。
 またメディア・リテラシーに関する重要な指摘が、随所にちりばめられているのもいいですね。たとえば、福祉政策などを評価するとき、「バラまき」という言葉がよく使われます。ところが、「バラまき」という言葉は、だれでも平等に保障したほうがよいことがらについて、そんな必要はないと思わせる「魔力」を持っており、よく考えればおかしい主張を当然のように感じさせてしまうと指摘されています。(p.11~2) こうした魔力を持つ"まがいもの"的な言葉を見分けること、これぞメディア・リテラシーの基本ですね。

 というわけで一人でも多くの若者に読んでほしい本です。教科書として採用されるといいのですが、原発にからむ利権を守るため、子どもや若者の健康を平然と踏みにじっている文部科学省の官僚諸氏が認めることはまずありえないでしょうね。国民の意識を低い状態にしておくことが、彼らの最大の仕事ですから。
最後に、心と頭の琴線にふれたいくつかの文章を紹介しましょう。
 「そんな権利(※知る権利)、うちらには関係ない」と思ってはいけません。生きてゆくのに必要なことを知るのはあなたの権利です。2011年3月11日の福島第一原子力発電所の事故で各地に大量の放射能がまき散らされたことはだれでも知っていますね。自分が生活している場所はどのくらいの放射線量になるのか知っていますか? 東電や政府はくわしいデータをすぐには発表せず、地域ごとの細かい計測もおこなってきませんでした。不安を感じた親たちや自治体などが自前で調べるしかない状態に追いこまれたのです。「知る権利」が保障されるどころか堂々と侵害されてしまった実例です。(p.8)

 そんな色眼鏡を私たちも知らず知らずかけさせられているかもしれません。「大丈夫です、安心ですよ」と働き方や暮らし方がいつもバラ色に映るような「眼鏡」をかけさせられ、大丈夫と信じて組んだローンが破綻した-性悪な色眼鏡はそうやって人生を深く傷つける力を持っています。(p.10)

 性悪な色眼鏡に惑わされないためには、私たちの生きている世界、現実をリアルに正確に知るために共有できる「道具」が必要です。(p.10~1)

 働き方の不安定化とは、労働者全体の待遇が切り下げられ、仕事の見通しが不透明になっているということです。
 これらは、おおむね次の三点のような現われ方をしています。第一は待遇の低い非正規雇用の増大と基幹化です。第二は正規雇用労働者のなかでも待遇悪化や労働の過密化がみられるという点、三点目は、失業する人びとが増加しているということです。(p.19)

 …貧困問題は労働の不安定化と社会保障の脆弱さによって生み出されたものです。貧困は個人の能力のなさや、落ち度に原因があると考えられがちですが、そうではありません。労働の不安定化には企業が利益を最大化しようとする要求の高まりがあり、社会保障の脆弱さは制度を整備してこなかった国や社会の問題があるからです。貧困の最大の原因は社会の側にあるのです。(p.40)

 こうした所得再分配を実現するために、福祉国家のもとでは、企業が負担する法人税や、高額所得者ほど税率が高くなる累進所得税が、国の財政の中心部分を占めてきました。しかし、1980年代以降の新自由主義のなかで、法人税と高額所得者の所得税は大きく引き下げられるようになりました。そうすると、当然、政府の税収は減ってしまうことになりますから、その分を何でカバーするかということが問題になってきます。そこで、消費税(付加価値税)を引き上げようという動きが出てくるわけです。現在の日本でも、消費税を引き上げて、その分を社会保障の財源にしようという議論がくり返しなされています。しかし、消費税は、法人税や所得税とは違って、所得の再分配をもたらしません。かえって、所得の低い階層のほうが日常的な消費にまわすお金の割合が多いために、所得の低い階層ほど負担が重くなるのです。そのため、消費税を福祉国家の財源にするということは、福祉国家が本来もっている所得の再分配機能を大きく弱めることになると言えます。(p.97)

 こうした反応は、要するに知らず知らずのうちに多くの人が「企業の論理」で考えているということを示しています。まるでだれもが経営者のように、コスト削減はやむなし、安い労働力を求める海外展開は止めようがないし、そもそも企業の利益を増やすためにはどんどんやったほうがいい、と考えます。しかもこの「企業の論理」はグローバル化のなかでタフに生きていくために、働く人びとにたいして「強い個人」を求めます。つまり、各人はそれぞれの「能力」を高めて企業が求める即戦力として働けるようにならなければならない。もしそれができなければ、失業したり賃金が低い仕事についてもしょうがない、そういう人は努力が足りない、「負け組」だ、と考えるのです。
 こうした反応と新自由主義とは深い関係があります。それは、新自由主義が、このような「企業の論理」を社会の隅々まで徹底させる考え方だからです。新自由主義をうけ入れてしまっているからこそ企業の行動に理解を示すのです。「企業の論理」をもう少しくわしくみれば、グローバリゼーションが進行するもとで、世界中で自由に利益を追求する多国籍企業の「資本の論理」といえます。(p.108~9)

 企業は労働者のリストラや正規雇用を非正規雇用に切り換えて利益を増やす一方で、その利益を富裕層である株主への配分にあてていたのです。これは新自由主義政策による格差・貧困化の要因の一つであるといえるでしょう。(p.114)

 社会保障分野でも1990年代以降、さまざまな規制緩和や制度改変がおこなわれました。この背景には、経済のグローバル化が進むなかで、資本の負担を軽減し日本企業の国際競争力を高めるというねらいと、社会保障分野に民間企業が進出して、利潤獲得の場にする(社会保障分野の市場開放)という二つのねらいがあります。(p.114)

 以上から、企業の海外進出の重要な動機としてまず「労働力の安さ」が挙げられます。さらに、現地で生産して現地で販売することに企業がメリットを感じているということには注意が必要です。これまでならば日本で生産した製品を輸出して海外で売っていたからです。この変化の背景には、①為替リスクの回避と②国際競争力の強化の二つの要因があると考えられます。(p.175)

 このようなビジネスモデルの下で、多国籍化した企業は日本の労働者の賃金水準に関心を持たなくなります。というのも企業の売上げが主として国内にある時には、日本国内の消費(内需)は労働者の賃金水準に依存しますが、海外での売上げが主なものとなれば、多国籍企業は自国の労働者の生活水準についてますます無関心になるからです。かつて日本企業は国内で自社製品を売るためにも、安定した雇用と賃金を保障していました。企業にとって日本国内の労働者は、生産の担い手であると同時に自社商品の購買者でもあったので、自動車や電機製品を買えるだけの賃金を払うことが企業の売上げの増加にもつながったのです。しかし、企業利益の占める日本市場そのものの比率が低くなることによって、労働者をモノのように扱う派遣切りなどを容易におこなうことができるようになったのです。(p.177~8)

 企業の社会的責任とは、何よりも責任をもってしっかりとした雇用を維持することであり、国内生産を犠牲にし、海外生産を拡大することで利益を増やす多国籍企業の自由な活動については、まさにグローバルな規模で規制をおこなう必要があるのです。(p.179)

 グローバル化によって変わる世界のなかで、私たちが普段、目にしているのは、その表象・現象の一部でしかありません。過疎地域にくらし、きつい・汚い・くるしい労働を支える外国人の人びとがいなければ成り立たない社会、そういう労働を外国の人びとにいわば「押しつけて」しまう社会。いつのまにか「社会のグローバル化」はそのようなところへ至っています。「共生」や「友好」を考えるためには、まずは外国の人びとであっても当然に、働き生活する最低限の条件をととのえることが必要です。(p.185)

by sabasaba13 | 2013-08-28 06:19 | | Comments(0)
<< 『オーウェル研究』 飯田線編(8):天竜峡(12.4) >>