言葉の花綵90

 もし私自身が末来図をもっていたとしたら、動物社会が飢えと鞭から解放され、すべてが平等であって、各々が自分の能力に応じて働き、メイジャーが演説した際に、迷い子になったアヒルのひなを私が前足でかばったように、強者が弱者を守るようなものであっただろう。(ジョージ・オーウェル)

 樹木、魚、蠅、そして私の最初の例にもどると、ヒキガエルといったものに対して子供のときの愛情を持ち続けることによって、平和で人間らしい末来は、少しは実現可能なものになると思う。そして鋼鉄とコンクリート以外には何も称賛できるものはないという教義を説けば、人は憎むことと指導者を崇拝することにそのありあまる精力のはけ口をきっと向けることだろう。(ジョージ・オーウェル)

 私が仕事の他に一番好きなものは、園芸、特に野菜をつくることです。私が嫌いなものは、大きな町、騒音、自動車、ラジオ、缶詰め食品、セントラルヒーティング、それに現代の家具です。(ジョージ・オーウェル)

 我々は他人の幸福などには関心はない。我々が関心を持っているのは権力のみである。どんな富やぜいたくな生活や長寿や幸福などにも関心はなく、権力、すなわち純粋な権力のみに関心があるだけである。純粋な権力の意味するものが君にもそのうちわかるだろう。我々は何をしているのかを知っている点では、過去のすべての独裁政治家たちとは異なっている。他のすべての者たち、我々自身に似ている者たちですら、臆病者で偽善者であった。ドイツのナチ党員やロシアの共産党員は方法の点で我々にとても近づいたが、彼らは自分たち自身の動機を認める勇気がなかった。権力を握ったのは不本意なことであると同時に限られた時間の間であって、人間がすべて自由で平等な天国がすぐ近くにあるようなふりをしていたし、彼らはたぶんそのように信じてもいたであろう。我々はちがう。我々はだれも権力を放棄するために握ったりする者などいないことを知っている。権力とは手段ではなく、目的である。革命を守るために独裁政治を確立するのではない。革命を起こすのは、独裁政治を確立するためである。迫害することの目的は迫害である。拷問にかけることの目的は拷問である。権力の目的は権力である。君は僕の言うことがわかりかけたかね。(『1984年』 ジョージ・オーウェル)

 全体主義的統治は従来の独裁や専制とは異なる、一つの運動であって、その前進は常に抵抗にぶつかり、その抵抗を絶えず除去していかなければならないので、「客観的な敵」が設定される。(ハンナ・アーレント)

 ジョージ・オーウェルのすべての著作に共通の要素は、ディーセンシィの意識であった。ディーセンシィという言葉自体は英語のうちで最も曖昧な言葉の一つである。しかし、ほとんどの人々はディーセントな行動を見分けるのに躊躇しない。それは相手の感情と人格とを考慮に入れた行ないのことである。(佐藤義夫)

 イギリス人はいつまでも恨みを心に抱くような人間ではなく、非常に忘れっぽく、無意識のうちに愛国心を抱いていて、軍事的な名誉を愛さず、偉人をあまり称賛しない。イギリス人は古風な人間の徳と悪徳とをもっている。二十世紀の政治理論に対してイギリス人は、別の理論を提示するわけではなく、ただ漠然とディーセンシィと呼ばれている道徳性をもち出す。(ジョージ・オーウェル)

 ディケンズはただ、お説教を垂れているだけである。ディケンズから最終的に引き出せることは、「人間が真っ当な振る舞いをしようとすれば、この世の中は真っ当なものになるだろう」("If men would behave decently, the world would be decent.")ということだけである。ディケンズが今も人気があるのは、人々の記憶に残るような仕方で庶民の「ネイティブ・ディーセンシィ」(生まれつき持っている人間の真っ当さ)を表すことができたからである。ディケンズの顔とはいつも何かと闘っている人の顔であり、恐れずに正々堂々と闘っている人の顔であり、静かに怒っている人の顔である、とオーウェルは述べている。(佐藤義夫)

 大方の革命家は潜在的な保守主義者である。というのは、社会の「形体」を変革することによってすべてのことは正される、と思っているからである。つまり、一度変革が達成されたなら、よくあるように、別の変革の必要性を見出さないからである。ディケンズにはこのような精神的な荒っぽさはなかった。(佐藤義夫)

 全体主義の真に恐るべき点は、それが「残虐行為」を犯すことではなく、客観的事実という概念を攻撃することである。それは末来のみならず過去をも支配しようとする。(ジョージ・オーウェル)

 自分の苦悩に対する解決は、いかなる解決もないという事実を受け入れることにある。(ジョージ・オーウェル)

 人間であることの本質は、人間が完璧さを求めないことである。つまり、人間は忠誠心のために時には進んで罪を犯すことであり、親交が不可能になるまでに禁欲生活を押しつけないことであり、人間は他人を愛することで、必然的にその代価として、人生に敗北して打ちのめされる覚悟をすることである。たぶん、アルコールや煙草などは聖人の避けなければならないものであろうが、聖人であるというのも人間が避けなければならないことである。(ジョージ・オーウェル)
by sabasaba13 | 2013-08-30 06:18 | 言葉の花綵 | Comments(0)
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