房総編(12):佐倉(12.7)

 それでは佐倉散策をもう少し続けましょう。美術館の近くには共同井戸跡がありました。ここ佐倉は高台に広がる町ゆえ、水の確保には苦労したようです。中井せともの店の店先には、蚊取り線香を収納する豚型の容器がたくさん並んでいました。でもこの器の正式な名称は何なのでしょう。こういう事を調べる時には、インターネットはほんとに便利です。どうやら「蚊遣り豚」というそうです。内藤新宿(現東京都新宿区)を発掘していたら江戸時代の末期頃の蚊遣り豚が出土したとのこと。また常滑にも蚊取りブタの由来があるそうで、ある養豚場で豚に群がる蚊に困り果て、土管の中に蚊取り線香を入れて使いましたが、口が大き過ぎて煙が散らばり効果はありませんでした。そこで、口を小さく改良した時、傍にいた豚の鼻に形が似ていたので、常滑焼のお土産として販売したところ爆発的に広まったということです。
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 古い商家の今井家住宅、佐倉囃子を紹介する新町おはやし館を撮影して、路地を左へ曲がると堀田家墓所があります。その一画にあるのが堀田正睦のお墓です。
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 岩波日本史辞典から抜粋して引用します。
 幕末の老中。下総佐倉藩主。佐倉藩の天保改革に成果をあげ、蘭学を取入れた。西丸老中などを経て41(天保12)老中。55(安政2)老中に再任し首座となり、勝手掛を担当。翌年、外国御用取扱となる。57年、登城したアメリカ総領事ハリスと会見。幕臣や大名への諮問のあと、通商条約締結を内定し、岩瀬忠震らに交渉にあたらせた。翌年、京都へ向かい朝廷に条約勅許を求めたが失敗し、家定の後継をめぐる将軍継嗣問題で一橋派とみなされ、井伊直弼に老中を罷免された。59年隠居、62(文久2)蟄居。
 蟄居の刑のまま、佐倉城内で卒したそうですが、もう少し活躍の場をあげたかった人物ですね。なお後述する蘭方医の佐藤泰然は、彼によって佐倉に招かれたそうです。いかにも城下町らしい鍵形の辻を曲がり、蘭学通りから左へしばらく走ると、県立佐倉高校記念館に到着です。竣工は1910(明治43)年、旧佐倉藩主堀田正倫の寄付によって建てられました。塔やドームを持つ洋風建築ですが、正面をおおいつくすような縦長のガラス窓が印象的です。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-11-01 06:16 | 関東 | Comments(0)
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