『永続敗戦論』

 『永続敗戦論 戦後日本の核心』(白井聡 太田出版)読了。なぜ自民党や民主党の代議士、官僚諸氏は、正気の沙汰とは思えないほど見苦しくアメリカに屈従するのか。それと好対照に、中国・韓国・北朝鮮に対しては、なぜ居丈高に振舞うのか、常々疑問に思ってきました。
 本書は、「敗戦」をキーワードにして、戦後における日本の社会構造・権力構造を解き明かそうとする意欲作です。まずタイトルの「永続敗戦」とはどういうことか、拙い要約ですがまとめてみましょう。日本の政治勢力は、膨大な犠牲者を出したうえに敗戦に終わったことの責任をとらないばかりか、直近の敵国・アメリカに取り入り、この敵国の軍隊が駐留することを進んで促してまで自己保身を図りました。彼らは、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーターと堕したわけですね。永続的にアメリカの属国でありつづけることによって、その力を後ろ盾として、政官財学メディアの各界に張りめぐらされた利権の構造を維持でき、それに与ることができる。しかし彼らはその代償として、中国をはじめとするアジアに対しては敗戦という事実を認めたくありません。また表向きは主権国家でありながら実はアメリカの属国であるという事実は、一種の精神的ストレスをもたらします。著者曰く「主権の欲求不満」ですね。そこでアジアに対する排外的ナショナリズムが声高に主張されることになりますが…
 アジア諸国(ロシアを含む)に対する排外的ナショナリズムの主張は、意識的にせよそうでないにせよ、日本に駐留する米国の軍事力の圧倒的なプレゼンスのもとで可能になっている。日本が「東洋の孤児」であり続けても一向にかまわないという甘えきった意識が深ければ深いほど、それだけ庇護者としての米国との関係は密接でなければならず、そのために果てはどのような不条理な要求であっても米国の言い分とあれば呑まなければならない、という結論が論理的必然的に出てくる。かくして、対米従属がアジアでの孤立を昂進させ、アジアでの孤立が対米従属を強化するという循環がここに現れる。また、こうした構造から、愛国主義を標榜する右派が「親米右翼」や「親米保守」を名乗るという、言い換えれば、外国の力によってナショナリズムの根幹的アイデンティティを支えるというきわめてグロテスクな構造が定着してきた。(p.28~9)
 隷従が否認を支え、否認が隷従の代償となる。きわめておぞましい相貌ですね。
 そして今日、このレジームはもはや維持不可能なものとなっています。ひとつには、グローバル化のなかで「世界の工場」となって莫大な国力を蓄えつつある中国が、日本人のかかる「信念」が中国にとって看過できない害をなすのであれば、それを許容しないという姿勢をもちはじめたこと。そして第二には、1970年代以降衰退傾向を押しとどめることのできない米国が、冷戦構造の崩壊以後、日本を無条件的同盟者とみなす理由を持たなくなったという事情です。言い換えれば、米国にとっての日本は、援助すべき同盟者というよりも収奪の対象と見なされるようになったということです。その一番見えやすい例がTPP問題でしょう。衰退を露呈し始めた米国経済は、新自由主義と経済システム全体の金融バブル経済化、そして旧共産主義圏の市場のこじ開け・統合によって延命を図ってきましたが、経済成長の鈍化を食い止めることはできず、限界に逢着したことを示すのが、2008年のリーマン・ショックでした。米国のTPP戦略は、この窮状からの脱出を目指す戦略のひとつです。保険・医療・金融・農業といった諸分野における米国主導のルール設定と日本市場の獲得ですね。日本の伝統的習慣や価値観、国土の地理的条件、国民生活の安全への配慮といった合理的な動機によって定められた「ローカル・ルール」を「非関税障壁」として排除し、アメリカ企業による日本市場の独占をめざすわけですね。しかしこれを「アメリカが悪い」と非難しても埒はあきません。もともと国家とは非道徳的なもので、国益の追求を最優先するものですから。問題なのは、日本において、"それを進んで受け容れ、あまつさえ積極的に手引きしようとする知的にも道義的にも低劣な人々がいること、そして彼らが指導的地位を占めていること(p.135)"です。著者曰く、"永続敗戦という構造の中核に位置するこの勢力が持つ世界観の歪みは、いまやほとんど狂気の域に接近している(p.137)"。国民の福利を一顧だにせず、己に有利な利権構造を死守するため、アメリカの属国としての立場の甘んじ、その代償としてアジアへの居丈高な態度を示すパワー・エリートたち。今、日本社会が呻吟しているさまざまな社会問題の根っこには、こうした構造が多かれ少なかれ影響しているというのが、著者の主張です。
 …現在問題となっているのは、われわれが「恥知らず」であることによる精神的堕落・腐敗のみならず、それがもたらしつつあるより現実的な帰結、すなわち、われわれが対内的にも対外的にも無能で「恥ずかしい」政府しか持つことができず、そのことがわれわれの物質的な日常生活をも直接的に破壊するに至る(福島原発事故について言えば、すでに破壊している)ことになるという事実にほかならない。(p.50)
 なお、虎の威を過信したのか、日本の政治勢力がアジア諸国との軋轢・緊張を昂じさせているに対して、アメリカが危惧の念を示していることにも触れられています。それについて述べた強烈な一文を紹介しましょう。
 こうした事態は、第三者的に突き放した見方をするならば、実に滑稽である。というのは、日本の親米保守勢力の低劣さ、無反省ぶりに米国は驚きあきれて怒りの悲鳴を上げているわけだが、その低劣なる勢力こそ、ほかならぬ米国が育て上げ甘やかしてきた当のものにほかならない。起きつつあることは、米国とサダム・フセインやウサマ・ビン=ラディンとの間で起こった事柄と本質的に同型なのである。イラン革命政権に対抗させるために肩入れしたフセインは軍事的に巨大化し、米国に刃向かうに至ったため、米国はこれに対して二度の軍事行動を起こすことになった。あるいは、アフガン戦争でソ連を叩くために援助したムスリム義勇軍戦士たちのなかから、ビン=ラディンのアルカイダは生まれてきた。つまりは、オフショア・バランシングのさまざまな策略の果てに、自らが指名して育てたエージェントが全く価値観を異にする統御不可能な怪物として敵対してくるに至ったわけである。
 翻って、日本の親米保守勢力にフセインやビン=ラディンのような覚悟があるとは到底思えないが、いずれにせよ歴史認識問題の次に来るより一層実際的な問題、すなわち日中の軍事的緊張の問題を米国として放置するわけにはゆかないであろう。その際には、二つの選択肢が考えられる。すなわち、これ以上の甘やかしを断固として止めることによって、日本に対アジア諸国との友好関係構築を強制するが、あるいは甘やかしを維持拡大し、紛争を焚きつけてそれをまたとない武器の商機とするか、という選択である。(p.150~1)
 というわけで、この「永続敗戦」は戦後における日本の国体となっているわけです。戦前は天皇制、戦後はアメリカ従属、それではいったい国体とは何か? 私なりにまとめれば、一切の革新を拒否し、人々に犠牲を強いながら、エリートたちの利権構造を守るための仕組みです。さあこの国体=怪物的機械を、私たちは止めることができるのか。著者は力強い言葉でしめくくられています。
止められる。なぜならそれは、われわれの知的および倫理的怠惰を燃料としているのだから。(p.185)

by sabasaba13 | 2013-11-05 06:17 | | Comments(0)
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