イタリア編(20):パッツィ家礼拝堂(12.8)

 そしてパッツィ家礼拝堂へ。ん? パッツィ家? てえことはなんだい御隠居さん、メディチ家との抗争に敗れたあのパッツィ家かい。ローマ教皇シクストゥス4世の後押しを受けたフランチェスコ・デ・パッツィは1478年、メディチ兄弟を襲撃、弟のジュリアーノを殺害しますが、兄のロレンツォはかろうじて難を逃れました。暗殺者らは市民にメディチ家への反乱を呼びかけるも失敗。ロレンツォ・デ・メディチの怒りは凄まじく、パッツィ家当主をはじめ100人近くが捕らえられて処刑されました。フランチェスコらは絞首されてヴェッキオ宮の屋上から吊り下げられましたが、その姿をボッティチェッリと若き日のレオナルドが写生した絵が残っているそうです。[『物語イタリアの歴史Ⅱ』(p.127)] またその処刑の様子を、ボッティチェッリが警察署と市庁舎の間の壁にフレスコ画で描きましたが、1494年メディチ家のフィレンツェ追放と共に破壊されました。ミステリー作家の深水黎一郎はこの絵を「残っていて欲しかった名画ベスト3・西洋篇」の第2位に挙げているそうです(講談社『群像』2012年10月号)。この礼拝堂は1429‐46年につくられたので、パッツィ家が全盛を誇っていた頃のものなのでしょう。内部に入って驚愕。まだ網膜に残像が残る、ミラノ大聖堂の重厚で荘厳なゴシック空間となんと違うことか。半円アーチ、ピラスター(付け柱)、円蓋、彩色テラコッタのメダイヨンがすっきりと組み合わされ、それを彩る控え目な幾何学的装飾。この軽やかさと清新さ、ブルネレスキが感じた「時代の精神」が形象化されたようです。
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 無学な輩の贅言よりも、高階秀爾氏の指摘に耳を傾けましょう。
 ブルネレスキの作品の何よりも大きな特質は、建物全体を明快な数学的規則に還元し、各部分の形態や大きさ、比例関係等を、単純で基本的なものに統一した点に、これを指摘することができる。円柱、半円形アーチ、水平な格天井等、彼の建物の基本的構造要素はいずれも最も単純なもので、わずかに見られる装飾要素も、三角形のフロントン(破風)や、メダイヨンと呼ばれる丸窓等、いずれも簡素な幾何学的形態ものばかりである。…それらの要素の組合せの結果生まれてきた空間造形は、ルネサンスのみの持つ清新な力強さに満たされているのである。『フィレンツェ』(p.106~7)
 外観も愛らしいですね、ちょこんと乗っかった天蓋がまるで不時着したUFOのようです。すこし離れて見るのもまた一興、両側に連なる柱廊、礼拝堂、鐘楼、糸杉がまるで一幅の絵のようです。回廊に付属した旧食堂は付属美術館となっており、チマブーエの『十字架像』などを見ることができます。剥落が激しいのは、1966年11月4日に起きたアルノ川の歴史的な洪水によるものだそうです。このサンタ・クローチェ地区では特に被害が大きく、水位は5m80cmにも達しました。そのためこの絵も大きなダメージを受けたのですが、人々の気の遠くなるような忍耐と努力で剥げ落ちた断片をひとつひとつ拾い集め、かろうじてここまで修復することができたとのこと。
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 それではサンタ・マリア・デル・カルミネ教会へと向かいましょう。地図を頼りに細い路地を通り抜け、科学史博物館の前を過ぎるとアルノ川に到着、すぐ目の前にヴェッキオ橋が架かっています。橋の上部を走るのがヴァザーリの回廊ですね。フィレンツェの支配者であったメディチ家の自宅(現ピッティ宮)と執政所(現ウッフィツィ美術館)を結び、一族だけが市内を安全に通行できるように作られた空中回廊です。ウッフィツィ美術館の入口あたりは黒山の人だかり、やはり予約をしておいて正解でした。このあたりで、イタリアに来て三日目、早くも禁断症状が出るようになったジェラートを食べて一休み。そして両側にお店が櫛比するヴェッキオ橋を渡ります。1345年に造られたフィレンツェ最古の橋で、第二次大戦末期のドイツ軍の爆破を免れた唯一の橋だそうです。さすがのドイツ軍も壊すのには忍びなかったのでしょうか。橋の中央には、今、自伝を読んでいるチェッリーニ(Benvenuto Cellini)の胸像がありました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-11-30 07:52 | 海外 | Comments(0)
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